2章 消えゆく森

第11話 枯れゆく森

 常緑樹が葉を落とし始めたのはセラが森を去った年の暮れのことだった。

 その年は秋から実りが少なく、今年は外れ年だと暢気にぼやいていたものだから、人々は冬になり事の重大さを知った時にひどく狼狽した。


 春になっても大半は枯れ枝の森で、人々は大樹を失った実害を知りようやく対策を始めたが、時すでに遅く、季節を重ねるごとに勢いのあった木々は立ち枯れて、二年経つ今も木こりたちはその伐採に追われている。


 これまで具に管理せずとも森は栄えてきた。それがこのごろ管理せねばよりいっそう枯れていく。丹念に枯れ枝を落とし、病害を払いのけ、薬を塗って。それでも失われる木は多く、森と向き合わねばならない辛抱の日々が続いている。


 人々の疲弊もまた、見ていれば明らかだった。


 住民の中にはセラを探し出して殺せというものもいたが、肝心の長老にその意気地はなく、大樹を失った心労から体を病み、床へと伏せる日が多くなって住民の間ではもう長くないという噂が立つまでになった。


 人の生もまた森とともに埋没していく定めなのかもしれないと、トニヤは書庫の窓辺に腰かけて虚空を眺めた。

 うろこ雲が流れていく。こんなに心躍らない秋があっただろうか。


 脳裏に蘇るのは兄弟二人で野山を巡り、鳥を追いかけ、山の幸を探した日々。二人で摘んできた小花を小瓶に生け、かき集めたきのこを母はよく美味しい料理にしてくれた。

 目を細めれば紅葉の向こうで思い出ばかりが遠く輝いている。大好きなセラと過ごした日々が。


 家族を失うのは自らの一部を欠損する感覚に近いだろう。父を失いセラを失い。ただ、年端もいかぬ時に父を失ったことと大きくなってセラを失った感情は同じでなかった。これほどに孤独で切ない思いをするとは露ほども知らなかったのだから。


 漂泊する視線を戻し、何気なしにページをめくると右隅に誰かの注釈があった。これが兄ならばと思うが、セラは本を汚すことを好まないからきっと別の誰かのものだ。それをそっと撫でる。彼のように身を入れて読めばきっと賢くなれるだろうけれども、あいにくトニヤにその気はなかった。


 自身はセラと違って勉強はあまり得意でないし、文字を追うのも苦手で、本が好きかと問われれば「憎んではいない」と答えるのが適切だろうと真剣に考えてさえいる。


 理由は幼いころの絵本の読みすぎにあると思う。


 小さな時、父ロアはよく自宅に異国の絵本を持ち帰った。父が仕入れてきた書庫行き異国の絵本を森で一番に読むのはトニヤたち兄弟だった。


 特にセラの読み聞かせが大好きで何度も何度もねだりながら絵本を読んでもらった思い出がある。優しいセラはいつでも嫌がることなく絵本を開いてくれた。同じ個所でも嫌がらず、繰り返し、繰り返し丹念に。トニヤは小さな頭で暗記するほどその物語に心酔した。


 そうして絵本を愛するあまり、反って絵の無い本が苦手で、本末転倒トニヤは本が苦手な子に育ってしまった。いわゆる父親ですら想像しなかった絵本の弊害である。

そのトニヤがあえて書庫にやってきて、本を開いているのにはたった一つの理由がある。


 セラを感じたいからだ。

 本に触れていると優しく賢かった兄の姿を今でもしっかりと思い出すことが出来た。


 セラの腰かけた窓辺、眺めた集落の景色、触れた無数の本たち……


 失踪から二年過ぎた今でも、森の書庫には兄の残り香が漂っていた。

セラを悪くいうものが大半の森で、トニヤはセラを信じていた。




 帰宅すると母のシーナが焼き菓子を焼きあげたところだった。トニヤは甘いものが大好きでそっと近寄り天板から一つさらう。そっと口に入れるとほのかにスパイスが香った。


「これすっごく美味しい。何入れたの」

「ルルスの実よ。フィボットさんが森で摘んできたのを分けてくれたの」


 母の声が珍しく弾んでいた。

 フィボットというのは森で一番古い木こりで森を良く知る、寡黙な働き者だ。

 歳はよく分からないけれど、ずっと前からおじいさんのような気がする。もじゃもじゃと生えた白髪交じりの長いひげがトレードマークの少し厳つい、けれどたまに笑うととってもチャーミングな人だった。


 セラの一件以降、森の住民はトニヤと母によりいっそう無関心になった。責め立てることもなくただ無視するだけ。まるで始めからいなかったように扱うのだ。

 それが虚しく感じられることもあったけれど、そんな中フィボットだけは変わらず良くしてくれた。


「お礼しないとね」


 もう一つクッキーを放り込むと今度は甘味が重なったように感じられた。


「クッキーを持って行って頂戴な」


 母は花柄の布にクッキーを包んで手渡した。




 フィボットは日中集落に戻らない。今の時間はきっと森の回廊にいる。

 森の回廊とは精霊の泉の奥、大樹の根元までの道のりのことを指す。鬱蒼として普段、人は好んで立ち入らない場所だけれど、木こりのフィボットはよくそこで森を見ている。だから、今の時間もいるはずだ。


 トニヤはクッキーの包みを手に精霊の泉へと向かった。


 歩いていると思い出が巡る。幼いころトニヤは泉に読書に行くというセラにくっついて何度もこの道を歩いた。小さな手を繋ぎ、森の声に耳を傾けたものだ。鳥たちの歌声、求愛する鹿の嘶き。風が吹くとたくさんの木の葉が柔らかいシンフォニーを奏でた。それも懐かしき記憶だ。


 今、動物たちはこの森にほとんどいない。大樹の焼失から間もなく皆、森を捨てた。彼らの行為を咎めるつもりはない。野生の鋭敏な神経であればおのずとその道を選ぶであろう。森はそれほどに老いていた。

 日に日に力を失っていく森の命を見つめながら、トニヤはセラを思った。


 セラは大樹の焼失と共に姿を消した。

 どうしてセラが大樹を燃やしたか無知なトニヤには分からない。勉強不足だということが関係しているとは信じたくないがそれでもセラの心情は推し量れなかった。


 セラはいたずらでそんなことをするタイプではないし、だから初め母から聞かされた時にはひどく驚いた。仕方のないことだったのよ、直接そういったわけではなかったが母はセラの罪を受け入れているようだった。


 死人が出なかったのは不幸中の幸い、だが大樹を失ったことで人々は不安定になり、ちょっとしたことにも苛々として、住民たちの間で諍いが絶えなくなった。


 長老が健在ならばもう少し何とか出来るのかもしれない。だが、頭を失った大人たちはこの頃森を捨てるか捨てないかで揺れている。捨てるという意見も良く分かる。皆、尽きていく森の命を見ていられないのだ。けれど、千年この地で暮らしてきたのに大挙して今さらどこへ行くというのだろう。


 幼き子ども、足を痛めた年寄り、病気を抱えた人々、そんなことまで考えているのだろうか。それよりは新たな長老を立て、一致団結して自分たちもまた森の再生に取り組むべきではないだろうか。十二歳の子供のトニヤですらそんなことをこの頃よく考えている。

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