第10話 無垢の夢
景色が現実へと引き戻された。手には違和が残り、静夜にフクロウの声が響いていた。
地面にくずおれて、片手で土をつかんだ。右手の松明がパチパチと音を立てている。手は恐ろしさでわなわなと震え、冷や汗がジワリとにじむ。しかし、それ以上は何もなかった。
幹に目を向けると先ほどまで見えた父の姿はなく、エルダーマザーもいなかった。幻覚だったのだろうか。そう思いかけた時、強烈な違和感がセラを襲った。
景色が揺れる。胃の中が熱くなり、何かが体の中をかけずり回っている。痛くて苦しくて、もだえながら胸元をかきむしりそして跪いて天を仰いだ。エルダーの芽がセラの核を突き破ろうとしている。
「かっ、ああ」
乾いた叫びを空に放った。血が奔流を巻いている。
喘いで空を拝む。心臓が太鼓のように高鳴る。
激烈な苦しみが限界に達し、果てようとした時、セラの身に不思議なことが起きた。
痛みを感じる胸元から眩い白光があふれ出したのだ。白光は浸すように胸元から全身へとゆっくり広がり、震える足先にまで届く。
セラ自身が白く光る生物ように気高い存在となり、衣服が光を受けてはためいた。筋肉が限界まで千切れそうに自由に延びて、内臓を押し上げる。
開けた喉の奥から胚芽が抜けていく。
潮騒が体を脱すると、天を衝くような巨大な白光が頭上へと放たれた。
神聖な白光は禍々しさに浸されたセラの全身を焼きつくして、奉げる祈りのように天へと消えていく。内臓を炙るような熱さのあと、セラは口元を押さえたが間に合わず、そのままその場で嘔吐した。
むせ込みながらうずくまる。己は身をエルダーの木に奉げようとしたのだ。心の弱さが改めて露呈した。
木の魔力には誰も逆らえない。見張りの言葉が頭で木霊する。自身がこれほどに心の弱い人間であるとは思わなかった。
セラは感覚を確かめるように手を握って開いた。光は消えて、体は何ともない。
「お前は何者です」
声がして振り仰ぐとエルダーマザーがいた。
「なぜ呪縛に逆らうことが出来たのですか」
セラは答えを返せすだけの余力がなく、エルダーマザーを睨みつけた。
「セラ」
父の顔が幹にじわじわと浮かんでセラに話しかけた。
「エルダーの木を焼き払いなさい」
セラは驚いて父の顔を見た。
「そんなこと」
出来ないという言葉を遮り、父が言を力強く継ぐ。
「千年にわたる呪いを解きなさい」
「でも、それをすれば父さんは」
「わたしたちを助けて欲しい」
父の思いに同調するように、次々と幹に気持ち悪いほどの無数の顔が浮かび上がった。
皆それぞれに無念の思いを抱いた彷徨える魂だ。数え切れぬほどの命がこの木によって吸われてきたのだ。
「たすケテ」
「タ……スケテ」
「タスけて」
「たす……けて」
「タスケテ」
助けを求める悲痛な声が混然一体となって反響し空間を揺らす。セラは思いの中に立ち尽くして彼らを見上げた。
彼らのために自身が出来ることは一つ、――それは魂の解放。
木を傷つけようと思って持ってきたナタもこの大きさでは役に立たないだろう。セラは手元で燃えていた松明をそっと枝垂れた葉へと近づけた。
「お止めなさい、木を焼き払うなど。愚かな行為だということがなぜ分からないのです」
エルダーマザーはセラの前に立ちふさがった。
「この木が無くなれば森は消失します」
セラは憎しみを押し込めて反論する。
「森に生ける魂まで無くなるわけじゃない」
「お前は森のすべてを否定するつもりですか」
森の否定は自身の人生の否定にもなるのだろうか。
一刻、脳裏に冴え冴えとした鮮緑の葉が過った。懐かしく愛おしい記憶が光の束となってセラの胸を包み込む。
森で過ぎた日々、父と過ごした書庫、そして家族の時間……
膨大な記憶の向こうに見えたのは父の貫いてきた正しさだった。
ああ、そうだ。自身はずっとずっと父の正しさに支えられてこの森で生きてきたのだ。
セラは口元に笑みをたたえると、万感の思いを込めるようにそっと手を伸ばした。
「父さん、愛してるよ」
そういうとエルダーの木へと火を移した。
篝火はゆっくりと燃え広がり頭頂部まで駆け上がって深い木の葉を豪快に焼いていく。
炎は幹まで伸びてやがて無数の顔を静かに焼き始めた。炎は火柱となり空へ昇る。
呪縛から解放されていくたくさんの声が聞こえる。ありがとう、ありがとうと泣きながら感謝する声はいつまでもいつまでもセラの心に響いた。
◇
「長老、大樹が燃えています」
夜半、血相を変えて飛び込んできた森の住民の言葉に長老はひどく狼狽した。
「燃えているだと、愚かな。見張りは立っていなかったのか」
「セラがナタを突き付けたそうです」
長老は悔しげに舌打ちすると夜着に羽織をひっかけて外へと飛び出した。
朝焼けのように明るい空。それが大樹の放つ炎の明かりだと気付き、皺を寄せる。木が焼失していく臭いが鼻腔を突いた。
「消火を急がぬか」
責め立てるような長老のいいぶりに堪らず、住人はペコリと頭を下げると急いで森の中へと向かって行った。
従者が去り、長老は忌々し気に煙る空を見上げた。火の粉が散り、この集落近辺にまで届いている。
「我が先祖の英断の歴史をこのような形で裏切るとは。セラはやはり忌子じゃ。悪魔の運んできた災厄じゃ」
忌む言葉もまた禍根とともに空へ去る。
結局その大火は消えることなく巨大なエルダーの木だけを丸ごと燃やし尽くした。
住民が大挙して向かった時その場には誰もおらず、木の悲鳴だけが響いていたという。火が回り、手の施しようが無くなった住民たちは木の燃え尽き倒れゆくさまをただただ見ているしかなかった。
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