第9話 森の書庫

 セラが無限に広がる闇の中で触れたのは孤独な一本の木の記憶だった。

 始めこの場所に森は無かった。小さな小さなジュナの木が一本だけ。


 ある時、最初に木に近づいたのは野生の白馬だった。


 水害で行き場を無くした白馬はジュナの木に近付き、雨宿りさせてほしいと懇願した。小さな木は懸命に枝葉を広げ快くそれを受け入れた。だが、白馬は続く雨でろくに食うことが出来ずにやがてひっそり息絶えた。馬の体は腐り、肥えとして土に染み込んだ。


 ジュナは根から馬の活力を得て少し大きな木へと成長し、周囲に下草が集まり始めた。そして白馬の命を取り込んだジュナの木は知恵を覚えた。


 孤独なジュナの木の元にやってきたのは熊の家族だ。冬籠りの場所を見つけられず困り果てていた家族に、厳しい冬はここで過ごすといいといって受け入れた。家族は心から感謝した。

 冬眠についた無防備な熊たちの体を樹皮で包みこむと命を絡め取り、今度は家族三頭分の魂を得た。


 以降、兎、鹿、猪、鳥にトカゲ。近づいてきたありとあらゆる野生動物の命を取り込みジュナの木は大樹へと成長した。


 多くの魂を束ねながら、気づけば百年ほどが過ぎていた。周りにはたくさんの木が生えてジュナの大樹を中心に広大な森が出来た。魂を宿したジュナの木はもはやジュナの木ではなくなっていた。


 得体の知れぬ大樹の魂からは意思を持った精霊が生まれ、エルダーマザーとして周辺の動植物を支配するようになった。エルダーマザーは自らがとり憑く木に新しい名前を贈った。


 それが――エルダーの木。


 彼らの支配する森は緑豊か。豊富な食料と清らかな水を求めて動物たちがやってきた。森はすべての命を受け入れた。その代償として死する時はその身を森に奉げよと告げた。動物たちは誓いを守り、自らの生の終わりを悟ると、そっとエルダーの木の元で永遠の眠りについた。


 生命力あふれる広大な森を目にして『命の森』と呼び始めたのは事情も知らぬどこかの国の愚かな人間たちだった。


 ある時、戦乱が起きて一つの国が滅んだ。生き残った人間たちは身を寄せ合うように大海を渡り、命の森へとやってきた。森で共に暮らしたいという人間たちにもエルダーマザーは代償を求めた。


 しかし人間の生は長い、死するまで待てなかった。


 そこで今度は森に暮らす代わりに一年ごとに一人、仲間の身を奉げよと伝えた。

始め拒絶していた人間の長老も行くあて無く、渋々条件を飲み、一年ごとに仲間を一人奉げる約束をした。人間の知恵を取り込んだエルダーの木は心を持った木へと成長し、エルダーマザーはまたその成長を喜んだ。


 セラはエルダーの木の記憶を辿りながら恐怖を感じていた。


 木が意思を持って人を飲んでいるという恐怖。野の獣に喰われるのとはまた違う種類の原始的なおそれ。人を飲むことを厭わぬ強靭なエルダーの木の無垢な魂をひたと感じる。

 何か強大なものに取り込まれる虚無感には抗いようもなく、その恐怖を包み込むように足元から温かい思いがせり上がってきた。


 温かさが頭部にまで達し、心にあふれる穏やかな気持ちで途端に恐怖が消える。

 景色が膨れ上がり、気が付くと森の書庫に立っていた。


 セラはここでいつも本を借りて森へと持ち出す。

 窓の外はとても日和が良かった。

 本の匂いが好きだけれど、でも多分一番好んでいるのはそれじゃない。父が選んだ本のすべてが愛しいのだ。


 書庫の中には老若男女たくさんの人々がいた。皆イスに腰かけて本を読んでいる。小さい頃にいなくなったディノ爺さんの姿もあった。


 幼い少女が夢中で読んでいるのは父の書いた『森の秘密』だった。


 セラの視線に気づくと少女は振り返り嬉しそうに笑った。


「たった一人でいいのです」


 セラはおぞましさを覚えた。気持ち悪さが指先にまで届く。少女の声に遠くの席の初老の男が反応する。低くて痩せた男だった。


「たった一人でいいのです」


 耳障りな言葉だ。その声に反応して今度は老婆がしわがれた言葉をゆっくりと絞り出す。


「たった一人でいいのです」


 エルダーの木が自身の思考の中に入り込み引きずり出している幻なのだろう。魂をコントロールして獲物を最終段階へと連れていく呪術に違いない。


「聞きたくない」


 耳を塞ぎ否定するように叫ぶけれど、皆の言葉は止まらない。


「たった一人でいいのです」

「たった一人でいいのです」

「たった一人でいいのです」


 種々の言葉が複雑に絡み合い、大きな魂を作る。叫ぶ声を押しつぶし耳の中へと飛び込んでくる。呪いの声が頭に反響して正常な判断を浸食していく。

 目の前を見るとエルダーマザーが妖艶に微笑み舞い降りてきた。


「さあ、皆と一つになって至高の物語をお作りなさい」



――命の物語は続く。気高き魂を紡いで生ける森の伝説となって。



 彼女が清らかな薄緑の胸で包みこむ。その柔さに心が安らいでいく心地がした。


「森の命は続いていく。これからもずっとずっと……」


 意識が混濁して抵抗することすら出来ずに悪魔を迎え入れた。


「従ってはいけない!」


 叫んだ父の声が遠くなる。書庫はだんだんと霞んでいった。

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