第3話 泉の精霊

 泉に戻ると伏せた読みかけの本が畔にあるだけだった。精霊の姿はどこにも無い。

 からかわれた。これまでの父の声はおそらくマネ上手な精霊のいたずら、急にそんな悔しさがこみ上げる。精霊はときおり戯れでこういうことをする。


 必死になったのが馬鹿らしいことに思えて屈んで本を拾った時、水滴の弾む音がした。

 ふと視線を泉に這わせると見たことのない泉の精霊が、淡い水色の透けるような上半身を泉からのぞかせていた。


「さっき呼んだのはお前だな」

「そう。だってあなたが真実を知りたがったんでしょう」

「父さんの声をマネするなんて悪趣味だ」

「違うわ。アレは本当にお父さんの声なのよ。聞いて判別くらいついているでしょう」

「父さんはこの森に居ない」

「ずっと居るわ。会えないだけ」


 セラは怪訝な視線を送る。泉の精霊はからかうように細いガラスの小指を立てた。


「意味が分からない」

「そうね、でもわたしは分かってる」


 まったく惑わすような精霊らしい口ぶりだ。見当もつかず吐息する。


「どうさせたいんだ。何で満足する」


 精霊はささやくように笑う。


「……長老の家に行きなさい。行って彼女の髪の毛を抜いてくるの。それをこの泉に沈めて。そうすれば真実が見えてくるから」


 精霊はそれだけを告げると魚の尾を翻し、泉の中へと姿を消した。




 セラは本も読み終えぬまま古道を抜け、森の集落へと帰った。

 集落は森の一部を切り開いて作られた閉鎖的な居住空間で、森に溶け込むように作られた小ぶりのツリーハウスがいくつもあり、老若男女様々な人々がそこで生活を送っている。現在は五十人ほどが住んでいるが昔はもっと多かったと聞く。


 森に沈んでいく命のことを不安に思う人々も多いようだけれどセラにはそれが愚かな不安であるように感じられた。たぶんそれが森に生きるという宿命なのだ。人の生は森の循環の中に無い。共生するという選択をした時点で人々に未来など無かったのだ。


 集落の片隅にある樹木にほとんど埋もれかけの、二階建て我が家に帰宅すると母とトニヤが居間にいた。


「セラ、お帰り」


 トニヤの弾んだ声がして母が椅子から立ち上がる。


「セラお茶淹れるから手を洗ってきなさい」

「構わないよ」


 不機嫌は好んでいないけれど、この時ばかりは少しの笑顔も取り繕えなかった。申し訳なく思ったけれど今はそんな気分じゃない。簡素に断りの声をかけて、二人とは視線も合わさぬまま二階の自室に閉じこもった。


 窓辺のベッドに横になり、天井を這いずるジュナの木をぼうっと見つめた。ジュナの木は生命力が豊か。そこが家であろうがレンガが積んであろうが構わず突き破る。始めに部屋に這った時は父が切ってくれたけれどここ数年はもうそのままにしてあった。



――行って彼女の髪の毛を抜いてくるの。そうすれば真実が見えてくるから。



「冗談だろ」


 自身は森の人々に嫌われているのだ。長老はその最たること、決して例外でない。

 特にあの長く伸びた白髪交じりの髪の毛は見るたびにおぞましさを覚える不気味の象徴で、それを手に入れることは大変に難しいことのように思われた。森のすべてを取り仕切る長老は祭事の時以外ほとんど自宅から姿を見せないのが通例で、普段は生きているのか死んでいるのかさえもよく分からないのだ。


 面会を申し出ればどうだろう、会ってはくれると思うけれど正直に髪の毛をくださいと願い出ても貰えるはずはなく、寝込みを襲わなければこっそり抜くなどということも不可能だ。肩についた毛をかすめ取ってくることも考えたが、およそ挙動不審で気づかれるに違いない。


 手詰まり感を感じて視線を窓の外に逸らす。

 とても良い天気であるのにそれさえも疎ましく思えた。


 精霊の泉の噂は聞いたことがあるので言葉そのものを疑っている訳では無い。けれどそれに従うのさえもずいぶん癪だ。惑わされたくない気持ちと真実にすがりたい気持ちの間で判断が揺れ動く。


 真実、とは意識しながらもこの五年間ずっと一番遠くに置いてきた言葉だった。彼女が示唆している真実とは十中八九、父の真実だろう。自身が知らない父の真実があるのか。そう考えて自身の考えの不可思議さが嫌になる。自身が知っている真実の方がずっと少ないのだ。


 ひっそりと姿を消した父、あの泣きそうな笑顔。考えもまとまらぬうちに寝がえりを打った時、不意に父が最後に読んでくれたあの童話の一文が頭をかすめた。



――ここはわたしの森だ。暮らしたいのなら条件がある。



 凛然とした響きをともなっていた。まるで釣鐘のように記憶を打つ。


「今は関係ないよ、馬鹿らしい」


 呆れたようにつぶやくけれど、本当は引っかかっていた。

 些末な記憶だと心の水底に沈めようとしても、浮草のように物語は浮上し、手を離れた浮草は記憶の水面でぷかりと揺れる。


 やめた先の物語はいったいどう続くのだろうか。


 わずかに何かが引っかかる時にはほとんど言葉で説明出来ない理由がある。論理的思考を好むけれど、自身の持つある種の勘だけは固く信じていた。その勘が告げている。あの時あれを読んだことにこそ何かの意味があるのだ。


 処理しきれない感情で起き出すと、吐息しておもむろに立ち上がり、家族に気取られぬよう父の書斎へと足を向けた。

 夕日の差しこむ書斎は古びた本の匂いがしていた。立ち入るのはずいぶん久しぶりのこと。本棚は長年使われることなくうっすらとホコリ被り、父のいなくなった当時のままだった。


 本好きのセラだけれど意図的に父の残した本には触れなかった。ページをめくるたびに父がどんどん浮き出てきて、優しい笑顔と言葉があふれまともに読めなくなるからだ。


 小さい頃はそれはそれはたくさんある様な気がしたけれど、わずかに本棚一つ分。今眺めると大した蔵書数ではないような気がした。ただどれも丹念に読みこまれたようでページの端を折って線を引き、注釈を書き、ぼろぼろになるまで使い古された愛された本たちだった。


「無いな」


 セラはなぞるように本棚にある全ての本の背表紙に目を通したけれど、『森の秘密』という童話はなかった。当然だ、十歳の頃の記憶など当てにならない。おそらく不確かだったのだろうと諦めて部屋を後にしようとした時、(机の引き出しを開けて)と声が頭の中で反響した。泉の精霊だ。


「思考を読むのはやめろ」


 いったい誰にいっているのか問いつめたくなる。こういうことが自身を怪しくさせるのか。いわれた通り机の引き出しを探すと紐閉じされた薄い紙の束がのぞいた。


 表には端正な字で『森の秘密』と書いてあった。

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