第2話 深淵への誘い
父ロアは利発な人物だった。
ユーモアを好み溌剌とした人。それでもって気真面目。一見対極とも思える二つの性質が父の特徴ある人柄を作っていた。
森の大人たちにはそれぞれ仕事があって、森で人々が円滑に暮らしていけるための役割分担をしている。父は森の司書。森にある唯一の図書館の責任者で、その役割を軽視している住民も多かったけれどセラにとっては知識ある自慢の父親だった。
時折仕事で森の外へ出駆けることがあって、持ち帰るのは民族研究の文献だとか雑用書、それに文献と少しの絵本。セラはこの絵本を森で一番に読めるのが、小さいころの何よりの楽しみだった。
小さなソファに父を中心に左右に弟のトニヤと並んで毎晩読み聞かせを聴く。今でも印象に残っている話があって、それはお化けのへそ狩りの話だ。今でこそ、怖がりはしないけれど当時はロアが情感たっぷりに読んでくれるものだから、夢の中にまでお化けが出現して眠れなくなったこともある。
すなわちセラの本好きは父の影響だ。
その父が消息を絶ったのはおよそ五年前のことだった。
消える前の晩のこと、父はセラとトニヤの兄弟に一冊の本を読んでくれた。当時、五歳のトニヤはともかく十歳のセラは読み聞かせを喜ぶ歳ではなかったが、しきりに読みたがるので付き合うつもりで机に肘をついて耳を傾けた。
読んでくれたのは『森の秘密』という聞いたこともない童話だった。
ふかーいふかーい森のおくに魂の宿った樹があります
その大樹は森の生き物たちを長い間ずっとずっと見守って生きてきました
あるとき大樹の森に国を追われた人間たちがやってきました
一緒に住みたいという人間たちに大樹はこう言いました
ここはわたしの森だ。暮らしたいのなら条件がある……
そこまで読んだと思ったら、父は急に声を震わせて読むのを止めてしまった。
「続き読まないの」
トニヤが閉じた童話を恨めしそうに目で追ったが、父はそれでも続きを読むことはしなかった。
「また今度な」
おそらくそう笑うのが精いっぱいだったのだろう。震える声にはあからさまな嘆きが含まれ父らしくもなかった。いつも明るい父の見せた初めての憂いだったように思う。
「続き読もうか」
それならばとセラが申し出たが父はそれを拒絶した。トニヤの残念がる様子がますます強くなる。父はそれをなだめて真っ直ぐにセラを見た。
「ありがとうセラ、でもこれは二人への大切な贈り物なんだ。だから今度また読むよ」
父の顔をのぞき見ると今にも泣き出しそうな表情で、空くような気持ちになったのを覚えている。父は精一杯泣くのをこらえたあと、視線を合わせ無理やりにっこりほほ笑んだ。
「セラ、父さんの声を覚えていてくれよ」
それがセラの聞いた最後の父の言葉になった。
童話を読んだ次の日、夕刻になっても帰らない父を案じ、行方を母に問いかけたがいつもと変わらぬ笑顔で微笑んだ。
「お父さんは森の外にお仕事に行ったのよ」
十歳というのは嘘を信じられるほど子供ではなく、でも事情を話してもらえるほどに大人ではない。勘のいいセラは母が大人の都合を使ったと察したし、何故、という思いもあった。でも聞けなかった。話せる話ならばとっくに話してくれているはずだった。
もし本当にまた外の仕事に行ったならばひと月は帰らないだろう。海を越え大陸まで出向くこともあると聞いていた。でも今回は行き先すら告げなかった。その違和感が父の遭難を告げていたのだと思う。
「お父さん、どこに行っちゃったの」
幼いトニヤは当然不安だったろう。
「ずっと遠くに行ってるんだよ」
本に目を落として何気ない風を装ったけれど、セラにはその遠くがどのくらい遠くなのか答えようがなかった。
結局ひと月経っても父は戻らず、そのまま行方不明ということになった。セラの知らないところでも調査はそれなりに行われたようだけれど手がかりはなく、まるで神隠しのようと噂され、セラには父の不思議な童話の思い出だけが残った。
父が消え、自身の日常は変わった。家族同士の間に出来たわずかな心の距離。母を嫌っているというのではない。それでも色々なことを勘ぐってしまうのだ。自然と一人で過ごす時間は増えて、精霊の泉に入り浸るようになった。咎めるものもなく、関わるものもなく。父の存在は思っていた以上に大きかった。
五年が過ぎて父の帰りを待つ者はいなくなった。森の生活に嫌気がさして森を捨てたのだろう、セラも自然とそう思うようになった。手がかりが無い以上、そう片付けるしかなかったのだ。
諦めるのは辛かったけれど、帰ってくると期待するのはもっと辛かった。だから心の内に都合された事実を用意した。父が新しい人生を歩んでいるのならばそれに越したことは無いし、自分もそれを応援しよう。
時々、会いたくて夢に出てきたけれど夢で会えるのだからそれでいい。そう信じて過ごした。
だから今ほど父の声が聞こえて驚いたことはなかった。
セラは歩きながらおそらく精霊のいたずらと考えた。いたずら好きの精霊が父の声を借りてセラを惑わしている。精霊にもたくさん種類がいて害をなさない穏やかな者もいれば人間を困らせる者もいる。
自身は森の精霊の性質を誰よりもよく理解していた。
「セラ」
声は深部に向かうにつれて深く嘆きを帯びた物に変わっていく。本物と感じられるほどの臨場感があり、とても不安定で憂いを帯びて、あのとき感じたままの父の声だった。
「父さん」
セラは歩きながら森に呼びかけた。声が冷やりとした空気によく通った。
「セラ」
再び名を呼ぶ声がする。灼けつくような焦燥感が湧きあがった。歩調はどんどん速くなり、心音が波打つ。心が急いて父を追いかける。
「父さんなんだろ。それともお前たちがからかっているのか」
いって舌打ちする。自分は諦めたくせに心の底で期待していたのかもしれない。精霊にはそれすらも見透かされているというのか。
まるで人をのみ込むような森のさらにその奥へ、声に導かれるまま鬱蒼とした長い回廊を抜けると命の森の最深部、大樹の根元の入り口へとたどりついた。
大樹は人々が何よりも大切にしている聖なる木で、森の命の循環を支えてきた樹齢千年になる古い巨木だ。通常は子供が近辺に立ち入ることさえ許されず、いつでも大人が監視している。
やはり入り口には大人が二人いて、見張り番をしていた。もちろん集落の顔見知りであるけれど、特別の繋がりはない。一人はセラの姿を見つけると目を剥いてがなり立てた。
「お前、セラか。ここは子供の来るところではない」
もう片方も寡黙であるが、不快な表情をしていた。
「今は勉強する時間だろう。さあ、学び舎に戻らないと長老にいいつけるぞ。大体お前は……」
彼が小言を口にした時、森の意思がそれをかき消した。
「セラ、ここに来てはいけない」
はっきりと聞こえた忠告の声。父は会うことを拒んでいる。セラは眉をしかめた。
呼び寄せたと思ったら今度は再開を拒絶するというのか。やや混乱して目眩がする思いがした。
けれど違いなかった。
(父さん、そこにいるんだろ)
確信をもって心中で呼びかける。拾える声は無いかと両耳に手を当てて耳を澄ました。精霊に接触するように慎重な動作を繰り返す。
しかしそれ以上は何も聞こえず、大人たちがその仕草を不審に思って近寄ってきた。彼らは威圧的な態度で嘲るような笑みを浮かべていた。
「どうした。また変なものを見たのか」
セラは視線を細めた。また、不理解な大人の戯言だ。
ビョーキのセラ。それが森の人々がセラにつけたあだ名だったからだ。
精霊は本来高尚な生き物であり、人前に姿を現さない。森に住まう住人たちをそっと見ているだけの存在なのだ。セラだけが特別で精霊を集めた。精霊が見えたり話せたりすることはセラが思っている以上に特異なことで、幼いころ友人に警戒なくその話をすると気味悪がってセラを異常者のように扱った。
やがて噂は森のほとんどの住人たちに知れて、大人たちまでもがビョーキのセラと揶揄した。友人はいなくなり、関わろうとする者はずいぶんと減った。幼いセラは心にひっそりと傷を負い、けれどそれを癒してくれたのは父の優しい言葉だった。
「セラ、それはお前の個性だよ。知ってるか、個性ってのは人と違うということさ。そして人と違うということはとても素晴らしいことだ。精霊が見えるということにはそれ相応の意味がある。きっと天がお前に授けた才能に違いない。誰もが聞くことのできない精霊の声をお前は感じ取ることができるんだ。それはお前が誰よりも純真な人間だからだよ。お前は精霊に愛されたんだ」
冷え切った心を温める言葉だった。以降、セラはどんなに蔑まれても傷つくことはなくなった。自身は精霊に愛された。その思いがセラを強くした。父の言葉はそれほどにセラを勇気づけた。自身が今でも揺るがないでいられるのは間違いなく父のおかげだ。
だから。
嘲る二人をよそにセラは再度心の中で呼びかけた。
(父さんいるんだろ、返事をして)
するとしばらくして透明感のある声が頭の中に響いた。
(セラ、知りたいのなら泉においで)
それは父ではなく少女の声だった。おそらく精霊のものだと思われる。
どうしてそれが分かるかは上手く説明できないが、ただ精霊の声には覇気というものがない。フワフワとして優しく儚い、まるで夢のようにつかみどころがないのだ。自身がその微妙な雰囲気を聞き分けられるのは、多く精霊に接しているからだろう。
セラは二人を無視し、踵を返すと精霊の泉へと舞い戻った。
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