セラの森
奥森 蛍
1章 命の森
第1話 森の声
鳥のさえずりが時を刻みあうように静謐な森に沈んでいく。
翠色と濃紺を弾いたような深い林道の奥で鹿の蹄の音が聞こえた。
昼のこういう時間ならば働き者の木こりがのどを潤わしにやってきても不思議でないが、セラはあいにく畔に一人でいる。額には心地よい汗、頬を撫ぜる軟風を感じながら、深く文字の海に心を沈めた。
本の中に広がる世界はいつだって己の探求心を掻き立てる。物語の海を旅する主人公たちは何に一番心を動かされるのだろう。飛翔する海鳥を見て、海路の雲の流れから天候を知り、そして夜空の星を見上げながら眠る愛しき日々。
どこかに行きたいわけではないけれど、そうした旅情に触れられるのであれば旅も案外悪くないと思う。
セラは命の森以上の世界を知らない。
例えば訪れるのは北の大陸の村だ。目裏の奥に広大な瀑布を想像する。瀑布の上には聖域があり、そこには太古の神々が住んでいると信じられている。特に人々が信仰するのはサハルの神で、道縁には奉げものの花皿がいっぱい。盛られているのはシュクル(ランの一種)の花だ。穏やかで人懐こい住民は訪れる旅人を好意的に迎え入れる。
あるいは巡るのは山岳地帯の集落だろうか。高地でヤギを飼い、搾乳してチーズを製造する人々の生活は質素だけれど心豊か。彼らは時々自らの作った塩気のあるヤギのチーズを肴にワインを酌み交わす。祭りで奉納される踊りは格式あるもの。華やかな民族衣装をまとい、花飾りの塔を立てて山神への尊崇を示す。
そんな風に頭を占めるすべての景色は夢想のもの。何も知りえない森の、それも蔵書で得た知識だ。それでも色々なものを虚偽でないように想像できてしまうのは、セラが幼いころより本に触れ感性を磨いてきたからかもしれない。
セラはこんな風に人生の大切な時間をこの精霊の泉の畔で過ごしてきた。
寄る者がないというのは案外都合のいいことで、自分だけの時間がべらぼうにある。下手に関わられるよりずっといい。
涼風に耳を澄ますと木立のざわめきが聞こえた。本の向こうに視線を流すと萌葱色の針葉樹から鳥が飛び立った。遠景で猪がキノコを食んでいる。いずれも近くに狩人がいるならば狩られるかもしれないが、それでも生き延びて欲しいと思うのは牧歌的だろうか。
自身も食べる肉だと笑いたくなる。
読書の効能というのは決して馬鹿に出来たものではなく、セラはそれを身にしみて知っている。知識で腹は膨れないと他人はのたまうけれど、自身は少なくとも父にはその大切さ教わった。それは己を律すること、幼き頃より積み重ねた本の数々が今でも自身の心を支えている。
世界は多くの輝きに満ちている、とはいつか読んだ本に書かれていた気に入りの言葉だった。
最上の期待をこめてページをめくろうとした時、空に掲げた本の背表紙が重みで大きくたわんだ。
「セラ、セラ」
緑の体色のコケの人々(コケの精霊)がセラの名を呼びながら髪や衣服を引っ張り、いたずら小僧のように笑う。セラは仰向けで分厚い本を掲げたまま、紙面に目を這わせ「やめろよ、集中できないだろ」と吐息した。
「お前たちの相手をしたくてここに来てるんじゃないんだ」
それでもコケの人々は関わるのを止めない。そっけないセラの言葉に親しみと愛情が含まれているのを知っているからだ。
小柄が覆いかぶさって読書を邪魔したので、たまらず本を短草の上に伏せて半身を起こしコケの人々を手で振り払った。
「いい加減にしろ」
手はコケ色の半透明の体を勢いよくすり抜けたが少なくともこちらの意思は伝わったようで、宙にふわりと舞い上がると無邪気な笑みを残して森の奥へと消えた。
畔はとたん静寂に包まれる。
少しの沈黙に安堵すると再び本に読み入った。
本の海を旅する間に悠久の時は過ぎていく。
こうしていると自然と浮かび上がってくる言葉があって、それは干渉という言葉だ。おそらく真理で、己の行為をそういう風に表現したいのだと思う。
本を読んで知識に触れ、様々な物語を自身のなかに溜めていくことは世界を記録することであり、その記録した世界で自分だけのものを組むなら自身は創造者でもある。創造し、妄想で世界を動かすこと。していることは自由世界への干渉だ。そのかわりそれは決して冷たいような響きではない。文化に触れ、干渉することは新たな文脈を創るということだ。どこぞの文筆家にでもなった気持ちで空想の一文に入り浸る。
干渉することを咎めたりする人はいない。たとえ権威を持つ長老でも。セラにとって少なくともそれだけが森で許された行為だったように思う。
懐かしい声がふいに静謐に混じった。
「セラ」
追慕に本をくるのを止め、呼吸をのんだ。
聴力を研ぎ澄ますと急いたような声がぽつりとまた一つ。
セラは怪訝な顔でゆっくり本を下ろし短草に伏せた。視線を巡らせ、周囲を見渡すがそこにあるのは森の木々の沈黙だけ。喋り出す者は誰ひとりとしていない。
ほとりから延びた森の回廊の深淵を探るように目を向けるともう一度深く声がする。
「セラ」
確信する。間違いようもない父の声だ。今度はさっきより強く聞こえた。
セラは本を閉じ、森の最奥を射抜くように見つめる。高鳴る心音を押さえつけるように本に触れた指先に白けるまで力をこめた。ありえない。父であるはずがないのだ。
「セラ」
「父さんなのか」
顔を上げ、追いかけるように問いかけた。急く声が森の涼気を揺らす。姿もないのにはっきりと聞こえる。まるでかどわかしのようだが、たしかに父だ。間違えるはずがない。
途端、胸の内で懐古の情が大きくふくれ上がる。とうの昔に捨て去ったはずなのに、希求しないと決めたはずなのに、どうしてこんなにも狂おしく愛しい。
セラは本を置き去りに声に導かれるように立ち上がると、声のしてくる方角の、泉の奥につながる森の回廊へと歩を進めた。
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