第55話
「そう。受けましたか」
馬子からの報告を聞いた額田部皇女は、安堵しながらも寂しい複雑な気持ちだった。厩戸皇子がこの縁談を断るのではないかとどこかで期待していた。自分以外の女性を正妃とするのを拒んでほしいと望んでいた。ただそれは女としての夢想であった。大王の立場としては、何としても受けてもらわねばならぬ。
額田部皇女は女性である前に大王だった。自分はこの国で最も高貴な女性であり、この高貴な血筋を伝えねばならないという誇り。厩戸皇子の子を成せなかったことが、皇子の愛を得ようと盲目となっていた額田部皇女に自身の誇りを思い出させたのだ。
橘王ならば血統も品位も教養も后として申し分ない。全ての点において膳菩岐々美郎女とは比較にならぬ。厩戸皇子の長子、山背皇子についても、母である蘇我刀自古郎女も今は亡き人、山背皇子は厩戸皇子の種ではないという噂もある。正妃となった橘王が男子を産めば、山背皇子でなくその子が厩戸皇子の次の大王になるのだ。
額田部皇女は、自分の果たせなかった夢を孫娘に託すことにしたのである。
厩戸皇子は、そのしなやかな指で若い橘王を抱くのだろうか。嘗て自分を愛撫した同じ指で、橘王の身体を求めるのだろうか。いいや、考えまい。今の自分は大王なのだ。この国の行く末だけを案じていればよいのだ。
「竹田がいてくれれば、今頃は」
額田部皇女は一人、部屋で呟いた。
「竹田皇子にあらせられましては、今頃、極楽浄土におられます」
古くから宮に使えている釆女が、聞きつけて答えた。
「竹田がいれば、この私がわざわざ大王になることもなく、穏やかに余生を送れたものを」
釆女は何と答えればいいかわからなかった。
この頃、額田部皇女が失意の中で思い出すのは、竹田皇子のことばかりであった。
若くして逝去した最愛の息子、竹田皇子が生きていたなら、母にこんな惨めな思いはさせなかったろうに。竹田なら一生涯裏切ることなく、母を愛し続けてくれたであろうに。
十七歳の時、愛のない結婚を強いられた額田部皇女にとって、お腹を痛めて産んだ始めての息子は、夫である他田大王よりも誰よりも、自分自身よりも大切な存在だった。
皇子が誕生した時、回りの誰もが喜んだ。皆に祝福され、光に満ちあふれた人生を歩むはずだった竹田皇子。誰よりも母を愛してくれた竹田皇子。
その皇子が死んで額田部皇女の人生は大きく変わった。竹田皇子に注いでいた有り余るほどの愛情が行き場を失ったのだ。竹田皇子が生きていたなら、厩戸皇子への執着も、額田部皇女の心を占めてしまうほどにならなかったに違いない。今頃は、大王となった竹田皇子や孫たちに囲まれ、大后として心穏やかな日々を送っていただろう。
「この先の人生、いったい何か楽しみがあるのだろうか」
「ございますとも。春になれば梅の花が純白に紅に咲き、お花見や水遊び、秋には紅葉狩りも楽しゅうございましょう。田目皇女や、橘王がいずれ御子を産みなさります。御子の成長ほど楽しみなことはございません」
「それは、楽しみだこと」
釆女の言葉に、額田部皇女は言葉とは裏腹な沈んだ声で言った。
この先いつか、孫娘である橘王が厩戸皇子との間に皇子を産むかもしれないし、将来その皇子が大王となることも大いにある。しかし、それが一体なんだというのだ。自分の血筋が天皇家に引き継がれる、ただそれだけのことではないか。最愛の息子を大王にすることも叶わず、ならばと愛する厩戸皇子を大王に立て自分が后として晴れがましい思いをすることも、厩戸皇子の子を成し、その子を大王にすることも叶わなかった。たとえ孫娘が産んだ皇子が大王になろうと誰が大王になろうとも、自分の幸福感は満たされないのだ。
一度は譲位を決意した額田部皇女ではあったが、橘王が成長し厩戸皇子の妃となって男子を産むまでは大王の座を譲ってはならないと、意を翻した。
額田部皇女は何ら変わりなく着飾り化粧をし、淡々と公務を続けた。大王としての誇りが彼女の気力を振り絞らせていた。
厩戸皇子が大王となるまでの期間、中継ぎの予定で即位した額田部皇女だったが、前大王、前々大王、さらに夫である他田大王よりも在位が長くなっていた。
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