第54話
厩戸皇子が斑鳩に移り住んで半年が過ぎた春の日、斑鳩宮の厩戸皇子の元に馬子が現れた。
尾張皇子の娘、つまり女帝の孫である位奈部橘王を妃にどうかという打診である。
橘王はまだ幼少、正式に婚姻するのは数年後になるが、太子妃には最もふさわしい皇女であるゆえ、今は婚約だけ、いずれ正式に婚姻すればいいという。
馬子は、大王となるには出自の正しい妃が必要であることを懇懇と説いた。馬子は、額田部皇女が断腸の思いでこの縁談を勧めたことなど考えもしなかった。女帝が厩戸皇子に熱を上げていたことは知っているが、彼女ももう老齢、今でも情熱を持ち続けたままだと思っていなかった。
馬子の話に、厩戸皇子は困惑した。斑鳩に住んでから厩戸皇子の足は遠のいていたが、それでも、額田部皇女を后にするつもりでいたのである。
この時、皇子はまだ額田部皇女が子供を産めない年齢になっていたのを知らなかった。
「しかし、大王がお許しになるか」
いつになく歯切れの悪い厩戸皇子を、馬子はふたりの関係を知らないふりをして淡々と言った。
「大王からのお話でございます。橘姫王が太子妃になられるなら亡き尾張皇子も安心するだろうと、是非にとのご様子でした」
「大王からの」
厩戸皇子は額田部皇女の意図を計ろうとした。
額田部皇女の元へはここ数年通っていないし、いつぞやの言い争いもある。自分ももう、かつて額田部皇女を魅了した若い青年ではない。さすがに彼女も愛想を尽かしたか。となると、正妃を立てていない厩戸皇子に、血縁の娘を勧めるのは理解できる。額田部皇女がそのつもりならば、この婚姻は断る理由など何もない、いや、絶対に断れないのだろう。
「わかりました」
厩戸皇子は静かに言った。その顔は、いつもの冷静な皇子に戻っていた。
「お話、お受け致します」
馬子は、ほっと胸をなで下ろした。
額田部皇女と同様に、馬子も、厩戸皇子が強引に膳菩岐々美郎女を正妃にしてしまうのではないかと危惧していたのだ。
それだけは絶対にならぬ。菩岐々美郎女が身分の低い女だからという理由だけではない。膳氏が外戚として勢力をつけてしまうのを恐れていたのである。膳菩岐々美郎女が后となったら、厩戸皇子がいつか膳氏を大臣に取り立てる可能性もないとはいえない。膳氏を、蘇我氏の地位を揺るがす存在にしてはならないのだ。
橘王が正妃となり皇子を産んだら、馬子の孫、山背皇子にとってはいずれ強力な障害となろう。だが橘王はまだ幼少、数年の猶予がある。五、六年後に厩戸皇子と婚姻し時を置かず皇子を産んだとしても、厩戸皇子が即位する時にその子はまだ充分な年齢になっていない。山背皇子が太子となるのは、まず間違いないのだ。
馬子はそう考えながら斑鳩宮を後にした
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