第52話
二ヶ月後の十月、当初の予定通り、厩戸皇子は飛鳥の上宮から斑鳩宮に移った。
生まれ育った上宮を離れるのを厩戸皇子は寂しく感じたが、それ以上に期待が大きかった。これからは、新しい土地で、誰にも気兼ねせず思う存分やりたいことをできる。
自分の動向全てが大王や馬子に監視されていた飛鳥での生活に比べると、斑鳩の生活は自由そのものである。ここでは密談を逐一馬子に知られる心配もないし、些細なことでむやみに大王に呼び出されることもない。俗務に煩わされずに自分の計画を実行できるようになったのだ。
自由を手に入れた厩戸皇子に反して、額田部皇女の気は重かった。喪中の皇女への気遣いなのかなかなか斑鳩に呼び寄せない厩戸皇子を、じれったく思っていた。
とうとう痺れを切らし、斑鳩の宮の様子を密偵に調べさせたところ、厩戸皇子は膳菩岐々美郎女とその子供らが住む飽波葦垣宮に頻繁に通い、まるで菩岐々美郎女と一緒に住んでいるようであることがわかった。
「なんですと。それでは斑鳩の娘を正妃としているようなものではないか」
額田部皇女の顔が、怒りで真っ赤になった。
報告をした釆女は慌ててかぶりを振った。
「そのようなことではございません、ただ、太子は子煩悩であられますゆえ、ご自身が亡きお父上にかわいがられたように、御子たちを育てられているようで、決して、膳夫人を正妃としているわけではございません」
「ええい、同じことよ。子なら蘇我の娘が産んだ子だっているであろうに」
「きっと、お寂しいのでございます。早くに大王がお側に行ってあげたほうがよろしいかと存じます」
釆女は必死になって訴えた。激情しやすい額田部皇女の気持ちを、何とか静めようとしていた。
「私が」
額田部皇女は、今すぐにでも皇子の元へ駆けつけたい気持ちを、ずっと自尊心で押さえつけていた。今でも自分のほうが主導権を握っていると思っている。
「皇子のほうから、来てください、と頼むのが筋であろう。そうでなければ私は行かない」
額田部皇女は膳菩岐々美郎女に対し嫉妬の炎が燃え上がると同時に、彼女に嫉妬する自分が許せなかった。
なぜなら嫉妬とは自分と同等の女性に対して抱く感情だからだ。厩戸皇子は「全ての妃は平等」と言っていたが、額田部皇女と菩岐々美郎女を平等に見る人間は、世の中で厩戸皇子ただひとりだろう。群臣も百姓も、菩岐々美郎女本人とて、ふたりが平等だなど思ってはいない。皇女の顔を直に拝むことさえ許されない身分の娘に対し、自分が本気で嫉妬するなど馬鹿げている。そう思っているのに止められない。また、そんな娘を、皇子が重く扱うことが我慢ができない。自分の腹立ちの対象は、自分と菩岐々美郎女を同列に並べる厩戸皇子でもあるのだ。
額田部皇女の胸の中は、厩戸皇子に対する歪んだ恋慕と、膳菩岐々美郎女への嫉妬、異常なまでに強い自尊心が渦巻いて、行き先の定まらない竜巻のようになっていた。
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