第51話

 馬子や群卿が譲位の準備を進めているうちに本格的な夏が訪れ、額田部皇女の宮を馬子が訪ねてきた。

「いよいよ十月の吉日、太子は斑鳩宮へ移られるとのこと、大王はどうなされましょう。やはり太子とご一緒に」

 額田部皇女にも既に皇子からの遣いが来ていたが、厩戸皇子本人が宮へ来なかったことを不満に感じていた。

「太子はどうしておる」

「引っ越しの準備やら、何やらでお忙しそうで」

「ふん、お忙しそうか」

 額田部皇女はあからさまに不機嫌を顔に出した。

 相変わらず皇子は、宮の建設を理由に額田部皇女との時間を疎かにしている。朝参や公務では頻繁に会っているが、仕事が終わると皇子はさっさと退出し、ふたりきりで過ごす時間を持てずにいた。

 また太子はご無沙汰してるのか、と馬子は感じた。 

「わかりました。よく考えて、太子には返事を送りましょう」

 額田部皇女の返答に、一瞬馬子は怯んだ。考えるまでもなく即答すると思っていたのである。

「大王が斑鳩へ参られるとなれば、諸々の準備が必要ですゆえ、日が決まりましたら、この馬子に早々にお知らせくださいませ」

 宮を出た馬子は吹き出る汗を拭いながら呟いた。

「やれやれ、皇子も譲位が無事に行われるまでは大王の機嫌を取ってうまくやってほしいものだ」


 額田部皇女は生まれ育った飛鳥を離れがたいのか、その後もなかなか腰を上げようとしなかった。

 そんな額田部皇女の態度に馬子はやきもきしたが、厩戸皇子は時が来れば動くだろうと軽く考えていた。

「私は」

 額田部皇女は独り言のように古株の采女頭に言った。

「斑鳩に行くことが嫌なのではない。皇子の遣いの言葉に、ほいほい喜んでついていく女に見られたくないだけ。皇子が礼を尽くし一緒に斑鳩へ来ておくれと誘ってくれれば、そうしたら答えよう」

 しかし、皇子の来訪を待つだけの額田部皇女と違って、厩戸皇子は未来の計画で頭がいっぱいだった。

 自分が大王になったらやろうと思っていることが次から次へ頭に浮かぶ。今のこの国にはやるべきことが山のようにあるのだ。中央政府の機構作り、学者や技術者の育成、法律や税制の完備、また、人民の生活のための諸々、数えきれぬ仕事がある。

 皇子は、そういった計画の立案に快感を覚えた。自分がこの国を作り整えて行くのだ。それは皇子にとって恋愛や遊戯よりも楽しいことだった。


 冴えない気持ちの額田部皇女を、更なる不幸が襲った。息子の尾張皇子が急逝したのである。

 長男の竹田皇子亡き今、尾張皇子は額田部皇女に遺されたただひとりの男子であった。厩戸皇子の子を産むことも不可能となり、尾張皇子が唯一の希望だったのだ。

 馬子は、額田部皇女の譲位に関して、彼女の喪が明けるまでの延期を皇女に提案した。

 額田部皇女は竹田皇子が没した時の、半狂乱で泣き叫んでいたあの時とは違う顔を見せた。彼女は冷静にキリリと言った。

「譲位は、しません」

「は。とおっしゃると」

「譲位のこと、今ひとたび考え直します」

「ですが、群臣は皆、正月の儀式の準備をしております。いつに延期するかはっきり言っておかないと不安になりまする」

「延期はない。譲位は止めにした。それだけじゃ」

 額田部皇女は取りつく島もなかった。

 宮を退出した馬子はその足で厩戸皇子を訪ねた。

 厩戸皇子は何やら経文の整理をしているようであった。

「引っ越しの準備は順調ですかな。何かお手伝いが必要でしたら遠慮なくお申し付け下され」

「そう大したことではない。宮の者だけで充分です」

「で、大王のことですが」

 厩戸皇子の顔が引き締まった。

「大王が何か」

「うむ。いや、譲位を止めると急におっしゃられ。尾張皇子のことで気が動転しておられるのか、一時的なことなのか……」

「そうですか。大王の気紛れは今に始まったわけではありません。まあ、しばらくして気持ちが落ち着いた頃に、私が斑鳩の話など聞かせてあげれば気が変わりましょう」

 厩戸皇子はそう言って笑ったが、そう簡単なことではないように馬子には思えた。

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