第49話

 その後も一向に工事を急ごうとしない厩戸皇子に、額田部皇女は苛立ちながら時を数えていた。

「急げば、来年の正月に間に合うのではないか」とせっつく額田部皇女に対し、厩戸皇子は「私が大王となるからには、立派な宮で即位したいのです。前大王のような急拵えの宮では馬鹿にされます」と軽くいなした。

 私には時間がないのに……。

 その度に額田部皇女は喉元まで出かかった言葉を飲み込むのだった。額田部皇女は既に五十歳になっていた。


 若い厩戸皇子と額田部皇女とでは、時間の長さが違っていた。先が短い額田部皇女にとって、一年という時間は長かった。一日でも早く厩戸皇子と共に暮らしたかった。この時でもまだ、皇子の子供を産むのを完全に諦めてはいなかったのだ。


 そうして譲位の儀まであと一年を切った春の日、額田部皇女はある噂を耳にした。

 厩戸皇子はなんと、斑鳩宮の目と鼻の先、河岸に、膳菩岐々美郎女の為に豪華な宮を建てたという。それはまさに王后のための宮のようだと人は言った。

 額田部皇女は頭に血が昇った。

 厩戸皇子が宮を建てる話をした時、額田部皇女の為に、どの宮よりも豪華な、趣向を凝らした宮を造ると言っていたではないか。だからこそ、斑鳩などと言う遠い地に建設を許可したのではないか。ああ、自分こそ厩戸皇子の正妻であるのに。膳菩岐々美郎女と同列に、いや、それ以下に扱われてしまうとは。あのような女ではなく、自分こそが厩戸皇子に最もふさわしい妻であるのに。

 噂を聞きつけた翌日、朝参の後、額田部皇女は奥の間に厩戸皇子を呼んだ。

 皇子が部屋で待つと、皇子の為に華やかな衣装に着替え直した額田部皇女が入ってきた。

「宮の工事の進み具合はどうなっておる」

 額田部皇女はゆったりとした動作で座ると、自分の胸の奥にある不満の欠片を刺激しないように、しとやかな口調で言った。

「もう直に完成いたします。秋になったら吉日を占師に選んでもらい、私は斑鳩に移ろうと思います」

「随分長かったこと。話によると、膳氏の娘のために豪華な宮を造ったそうね。まるで后の宮のようだと人々が言っているけれど」

 額田部皇女は横目で皇子を見て、語尾を上げて言った。

「彼女の宮だけが特別豪華なのではありませぬ。私は私の妃、子たち全てに平等に宮を与えたいと思っております。貴女のための宮も既に完成しており、私と共に斑鳩に移られると良い」

「全ての妃を平等に?この私と膳氏の娘が平等だと」

 厩戸皇子は毅然として言った。

「全ての妃、全ての民は平等なのです」

「貴方の理想論を聞いているのではない。私は、膳氏の娘と平等に扱われるのなら、斑鳩へは参りません」

 口をへの字に結んだ額田部皇女の様子を、厩戸皇子は冷ややかな目で見て言った。

「ならば、好きになされるがよい。貴女が斑鳩に住みたくなければそれも構わない」

 淡々とした口調の厩戸皇子に、額田部皇女は意を決して言った。

「斑鳩宮の建設が決まってからというもの、貴方は一度も私の元へ通って来ない。私は、斑鳩に宮の建設を許したことを後悔しております」

 厩戸皇子は答えなかった。鉛のような時間がふたりに流れた。

「約束が違います」

 沈黙を破ったのは額田部皇女であった。大王としての矜持から、今まで決して口に出さなかった言葉を口にした。

「私は貴方の妻になる約束で太子にしました。貴方が通って来ないのなら、約束が違います」

 額田部皇女の、はらわたを絞り出すような言葉である。

「ならば、私を太子の座から廃しますか」

 厩戸皇子は、冷たく光る冬の月のような目で額田部皇女を見つめた。

 額田部皇女の息が止まった。

「貴女がそうお思いになるのでしたら仕方がありません。私を廃されるもよし、貴女は大王なのですから、貴女の思うがままになされるがよいでしょう」

 厩戸皇子は冷静に言い放ち、立ち上がった。

「お待ち下され」

 退室する皇子の後ろ姿に、額田部皇女は慌てて言った。その声は悲鳴にも聞こえた。

「そういう意味で私は言ったのではありませぬ。ただ」

 厩戸皇子は背を向けたまま、無言で振り返った。

「ただ、私の気持ちも考えてくだされば、と」

「貴女のお気持ち?」

 厩戸皇子の薄い唇の端が上がった。

「貴女のお気持ちとは、どのような」

「私が、貴方を愛しているという気持ちです」

 額田部皇女は、すがりつくような眼で皇子を見つめた。今まで保ってきた矜持を捨て去った、最後の切り札とも言える言葉であった。

 しかし、厩戸皇子は、馬子や群臣に向けるような氷の微笑みで、額田部皇女の切り札をいとも容易く切って捨てた。

「それは重々承知しております」

 そう言って皇子は立ち去った。

 額田部皇女は、皇子の消えた場所を見据え、膝に置いた両手を握りしめた。両手が小刻みに震えている。

「……私は醜いか」

 額田部皇女は、部屋の外に控えていた釆女に訊いた。

「は?」

「私は、そんなに醜いか」

「何をおっしゃりまする。大王は誰よりもお美しゅうございます」

「結構。私も年老いた。それは自分が一番わかっておる」

「そのようなことはございませぬ。まだまだお若くあられます。殿方を魅了する美しさは充分すぎるほどございます」

「だが、あれは私を拒む」

「今のは売り言葉に買い言葉のようなもの。大王を愛しているとおっしゃったではありませんか」

「言ったのは私のほうじゃ。あれは、承知していると言っただけ」

「ならば、やはり大王の愛にお答えするという意味でしょう」

 そなたはあの顔を見ていないからそんな戯言を言うのだ。額田部皇女は唇を噛んだ。

「もうよい。下がれ」

 額田部皇女の心は、鉛の雲に押しつぶされそうだった。

 今まで、厩戸皇子との関係は自分が主導権を握っていると思っていた。大王である自分がひとこと言えば、皇子を廃太子にすることも、政から降ろすこともできる。皇子の運命は自分次第なのである。自分が皇子を嫌いにならない限り、皇子からは決して関係を終わりにしようと言われるはずがなかった。それなのに先ほどの態度はどうだ。まるで立場が逆のようなあの態度。

 今まで、人を思うがままに動かしてきた額田部皇女には、自分を厭う人間がいるなど考えもしなかった。額田部皇女が大王という立場も矜持もかなぐり捨てて発した言葉を、厩戸皇子は火鉢の灰よりも軽く口先だけで吹き飛ばした。それは額田部皇女にとって生まれて初めての屈辱であった。

 皇女として生まれ育ち、皇后、大后として、もちろん大王となってからも、その言葉は黄金の重みを持っていた。それが今、黄金を泥の固まりに変えてしまった男がいる。もしかしたら、最初から黄金ではなかったのかもしれぬ。泥の固まりを黄金に見えるふりをしていたのかもしれぬ。いいや、決してそんなことはない。自分の言葉は黄金であり、自分は美しく魅力的な女なのだ。厩戸皇子だってそれはわかっているはず。皇子は今頃自分の言動を後悔しているだろう。ならば詫びの機会を与えてやろう。そんなことも自分にはできる。膳菩岐々美郎女のような小娘よりずっと、自分は心の広い女なのだ。きっと、皇子を自分の前に跪かせてみせる。

 額田部皇女は背後に飾ってある大陸風の鏡に顔を映した。皮膚のたるんだ女の顔が見える。

 額田部皇女は、鏡の中の自分に向かって呟いた。

「いいや、私は美しい」

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