第48話

 推古十二年元旦、冠位の授与式が行われ、二月四日に暦の制定、四月三日には十七条憲法が公布された。

 群臣の前で十七条憲法を読んだのは厩戸皇子である。額田部皇女から「私は難しい言葉はわからぬ、貴方が書いたのだから貴方が読み上げるがよい」と言われたのである。額田部皇女としては、馬子の思惑と正反対、できるだけ厩戸皇子に権威をつけてもらいたかったのだ。


 その後、馬子は群卿を集めて会議を開いた。

 大王位の譲位についての会議である。馬子はこの時まで、額田部皇女の譲位の意向を皆に伝えていなかった。

「さて、律を制定し、この国も大分整ってきた。数年以内には隋からの使者が参りましょう。そこで、思いますに」

 馬子は、以前の隋の返書のことには一切触れずに、言った。

「そろそろ厩戸皇子に即位していただこうと思うが、いかがかな」

 皆、顔を見合わせた。いちように戸惑いの色を浮かべている。

「大王が位を譲るなど、今までなかったことだが、大王は承知をしているのですかな」

 そう言ったのは、以前酒の席で厩戸皇子の即位を勧めた巨勢臣である。

「おや、いつぞやは今すぐにでも太子が即位しても構わないと言っていたのにどうなさった。元々、大后には中継ぎとして大王に立っていただいたもの。太子が相応の年齢になれば、譲位をするとの前提であったはず」

 馬子は穏やかに反論した。

「まあ、確かに中継ぎと言ってはいたがね。しかし、まだお若すぎるのでは」

 彼の頭には、泊瀬部皇子を大王にした時もほとんど馬子ひとりで決めてしまったことが引っかかっているのだ。

「お若いと言っても、太子は今年三十一歳になられた。大后が大王に立って十二年、その間太子もいろいろ政治のことを勉強され、今では立派に役目を果たしておられる。皆もご存じであろう」

「さりとて譲位となるといろいろな問題が生じよう。今後、やたらと大王が位を譲るようなことがあっては」

 巨勢臣の言葉に、皆頷いた。

 厩戸皇子が大王になることに反対なのではなかった。むしろ皆、賛成の気持ちのほうが強い。しかし、以前は厩戸皇子の即位に反対していた馬子が、急に態度を変えたことに対して警戒心を抱いたのである。

「そのことは先に発布した憲法に書いておりますぞ。大事は必ず皆で謀って決めよ、と。この先も、大王と言えど我らの同意なしに勝手に譲位することはできぬ」

 皆、押し黙ったまま、考えるふりをした。

 何の異論もないが、ただ、馬子の提案をそのまま受け入れる態度を見せないようにしただけである。

「大王が承知なされますか」

「大王のご意向は伺った。大王は会議で決めたのなら従うとおっしゃっておる。ただし、譲位された後には、特別な位を考えねばならぬ。大王であられたのだからな。大后でもなく、それ以上の位をと。それが譲位の条件だと」

「ふうむ。まあ、それくらいは当然言うでしょうな」

「太子が即位するとなると、今、太子は斑鳩に宮を造られておられるが、斑鳩を京に」

「いや、それは、宮を建てる時にも太子に確認いたした。斑鳩に移すということではなく、斑鳩を学問の京に、飛鳥を政の京にし、我らが政を行う京は今と同じく飛鳥のままでよいとのこと」

「それなら結構。また斑鳩のような辺鄙な場所に屋敷を建てねばならないのかと心配いたした」

「全くだ」

「それならば、よろしいのではないでしょうか。太子も政に慣れたようですし」

 頃合いを見て、阿倍臣が賛意を表明すると、皆も口々に同調し始めた。

「最初から太子を大王とすることに異存があったわけではないですからな。ただ、年齢が心配だっただけで」

「京が飛鳥のままならば何の問題もない」

 場は厩戸皇子の即位に賛同していった。

「つまりは、大王が譲位しても、私ら群臣は今と変わりなく暮らせるということだ」

 馬子はそう言って、群臣を見回した。

 皆は、馬子の言葉の意味を深く考えようともせず、安堵の笑いを漏らした。

 馬子の言葉の裏には、たとえ厩戸皇子が大王となっても大王の権力が増大することはなく、自分を中心とした飛鳥で政治を執り行うという意味が込められていた。


 翌朝、馬子は、会議の決議を伝えに大王の宮を訪れた。

 額田部皇女は、馬子の言葉を聞いて大層喜んだ。

「で、いつになる」

「大王の御父君であられる欽明大王が即位なされたのは三十一歳、太子が三十二歳となられる来年の正月がよろしいのではないかという話になっております」

「来年の正月か。待ち遠しいのお」

 額田部皇女が嬉々として言った時、厩戸皇子が口を挟んだ。

「お待ち下さい」

「ん」

「宮がそれまでには完成いたしません。もう一年延ばしていただけませんでしょうか」

「先達てには、もうほとんど完成していると言っていたではないか。それを何を」

 額田部皇女は、尖った声で言った。

「宮はほとんど完成しております。しかし、寺や、他の建物ができ上がりそうもありません」

 当時は農閑期にしか労役の民を使えなかったので、木材の伐採や整地など、大掛かりな作業は秋の収穫期が終わってから春の種まきの季節までの間にだけ行われていた。

 厩戸皇子は、自分や妃たちの宮を造るだけでなく、寺を造り道路を整備し、斑鳩にひとつの町を造っている為、かなりの月日が必要だったのである。

「ならば、再来年の正月、それまでには大丈夫ですかな」

 不機嫌になった額田部皇女の顔色を窺いながら、馬子が厩戸皇子に言った。

「うむ。それまでには間に合わせましょう」

「それでご異存はありませぬか、大王」

「異存も何も、できないと言うものは仕方あるまい。再来年の正月ぞ。必ずに」

 額田部皇女は厩戸皇子に念を押した。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る