第46話
年が明けて推古十一年、その年の正月は寂しかった。
というのも、新羅征伐に向かった軍隊が筑紫の港に滞在したままであったからである。大将軍の来目皇子をはじめ、多くの豪族たちが飛鳥の京を離れていた。
額田部皇女が馬子に、厩戸皇子の即位の儀をせかしても、馬子はそのことを理由にして急ごうとしなかった。
「京を離れている豪族が多い中で即位の儀をなさるのは、軽率にございます」
そう言われると、額田部皇女はぐうの音も出なかった。
二月のことである。凍えそうな冬の日の午後、飛鳥の大王の宮へ筑紫からの早馬が着いた。
「一大事にございます。新羅討伐軍総大将来目皇子、筑紫にてご逝去なされましたっ」
筑紫からの使者は、大王の前にも関わらず、乱れた息のまま言った。
「何」
知らせを聞いた額田部皇女は、すぐさま馬子の屋敷と、上宮の厩戸皇子に遣いをやった。馬子への遣いには「太子はおそらく斑鳩の膳氏の屋敷にいるでしょうから、大臣から遣いの馬を出してくれるように」と添言をした。斑鳩へ自分の遣いを出さなかったのは、膳菩岐々美郎女の屋敷に入り浸っているであろう厩戸皇子への、軽い意地悪心からであった。
翌朝、来目皇子の死を受けて急遽会議が開かれた。
厩戸皇子の心中を思ん計った一部の群臣から「ここは新羅征伐を一旦中止してはどうか」という声もあった。しかし、厩戸皇子が、その必要はないと言い切ったのである。
「私のことを思ってくれるのはありがたいが、私個人の心情で皆が会議で決めたことを変えてはいけない。新羅征伐は続けましょう」
会議の動向を見守っていた馬子が、その時大きな声で言った。
「太子のその御心、さぞや悲しかろう御心を隠し、国の為を第一に考えてくださる。なんと立派なこと。皆、太子の御心、無駄にするでない。来目皇子の果たせなかった無念を、我ら臣が果たしていきましょうぞ」
もちろん馬子は中止する気など毛頭なかった。新羅征伐を続けることが厩戸皇子の本意であり、来目皇子の遺志であるように、巧みに群臣の心に訴えたのだった。
後日の会議で、後任の将軍を厩戸皇子の異母兄である
額田部皇女は、会議の決定を知らせる馬子に呟いた。
「ところで厩戸皇子はいつまで喪に服すのだったか」
額田部皇女は、以前、厩戸皇子が自分との婚姻を、妻である刀自古郎女の喪中を理由に引き延ばしたことを思い出していた。
「それにしても、あんなに丈夫そうだった来目皇子が、筑紫に行った途端、病になるとは」
額田部皇女は、ちらと、馬子を見やった。
馬子はその視線の意味に気づかぬふりをして答えた。
「まったくです。筑紫の気候が合わなかったと見えますな」
馬子に山背皇子をいずれ太子にしたい考えがあることに、額田部皇女は気づいていた。
兄弟間の継承が多いこの時代、厩戸皇子の同母弟である来目皇子にはいなくなってもらったほうが、馬子にとっては都合がいい。馬子が毒を盛った可能性も充分に考えられる。
だが、額田部皇女にとっては、来目皇子が死のうと生きようと大きな問題ではなかった。どうせ自分の息子、尾張皇子を次の太子にするつもりである。来目皇子など尾張皇子の敵ではない。それよりも厩戸皇子が服喪期間がいつ終わるかのほうが重要問題だった。
「まあ、これも天命。仕方のないことよ」
額田部皇女はあっけらかんと言った。
額田部皇女の言葉に、馬子はほっと胸をなで下ろした。
病死した来目皇子に代わって新羅討伐軍の大将軍に任命された当麻皇子であったが、兵の駐留している筑紫に向かう途中、同行していた妃が急病で死に、喪に服す為に大将軍の任務を遂行できなくなった。
続く不幸に皆の腰が引け、結局、新羅征伐は中止となり、軍隊は筑紫から引き上げることになった。
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