第45話

 それから間もなく、稲刈りの季節を迎えようとする秋の日、厩戸皇子が斑鳩の宮の建設現場を見て回っていると、突然馬子が家臣たちを連れて現れた。

「太子が造られる宮を、今後の参考に拝見させていただこうと思いまして」

 馬子は、穏やかな笑みを浮かべ、明るく言った。

 馬子がこういった態度を見せる時は大概腹に一物あると、厩戸皇子は経験から知っていた。

「言ってくだされば、迎えをやりましたものを」

「いやいや、たまには馬で遠乗りをするのも一興ですからな。それにしても、斑鳩は思った以上に遠い。私のような年寄りには、ちと骨が折れまする」

 厩戸皇子は、まだ馬子が反対なのかと思いつつ、馬子同様明るい笑顔で言った。

「大臣は、都合の悪い時だけ年寄りになられます」

「ほお、大分でき上がってきたようですな」

 馬子が眺めた斑鳩の地は、一つの村のようであった。整地された土地に碁盤の目のように道路が造られ、既にあちこちに家臣の屋敷が建てられはじめている。背後には錦の帯に変わりつつあるなだらかな丘陵、眼下に竜田川が流れ、河の向こう岸にも何やら建設している様子が見える。

「なんと優美な眺めよ」

 馬子は思わず口に出した。

 厩戸皇子は、建設中の自分の宮に案内した。まだ完全にはでき上がっていなかったが、やがては主にふさわしい立派な宮となろう。

 近頃では、馬子は、厩戸皇子が斑鳩の地に宮を構えるのは良いことかもしれないと思うようになった。

 いくら斑鳩を京のようにしようと思っても、古くからの群臣は飛鳥に居を構えているままだし、政治は飛鳥で行われている。厩戸皇子を遠く斑鳩の地に封じ込めておいたほうが、余計な口出しをされずに馬子の思うようにやりやすいと言うものだ。

 ふと、馬子は、宮に隣接した土地の基礎工事に気づいた。

「あちらは」

「ええ、私も寺を建てる予定です」

 斑鳩寺、後に言う法隆寺である。

「うむ、それはよろしいことですな。仏教が徐々に広がり、近頃は群臣も挙って寺を建てようとしておる。私共が遅れを取るわけにはいきませんからな」

「ええ、この寺に塔を立てようと思っているのです」

「ほう、この寺にも塔を」

「そのうち他の豪族たちも真似をして、あちらこちらに塔が立つようになったら、国中塔だらけになって、さぞおもしろい眺めでしょうね」

 厩戸皇子は、まるで未来を見通すような目で言った。

 その後ふたりは、膳臣の屋敷で休息を取ることにした。

 厩戸皇子は、下女に酒を持ってこさせている間、馬子に説明した。

「あいにく、我が妻、菩岐々美郎女は親戚の家へ遣いに出ております。大臣に紹介できる良い機会だったのですが」

 厩戸皇子は、馬子が菩岐々美郎女を見に来たのではないかという思いが頭をかすめ、郎女に居留守を使わせた。

「お気遣いなされますな。我が娘、刀自古郎女がいない今、太子がどんな妃を持たれようとも太子のご自由。幸い我が娘は山背皇子を遺してくれ、太子も皇子を大切に育ててくださる、充分満足です」

 馬子は気味の悪いほど穏やかな口調で言った。厩戸皇子は馬子の斑鳩訪問の目的が推し量れず、馬子の出方を警戒しながら、馬子の言葉を待った。

「山背皇子はいかがお過ごしですかな。新年の儀にもご出席なされるのでしょう」

「ふむ、山背は健やかに成長しています。直に私の背を追い越すのではないかと思っております。本当に刀自古郎女は良い子を産んでくれました」

「もったいのうお言葉。山背皇子が壮健とのこと、何よりです。まことに、この歳になると孫の成長だけが楽しみになりましてな。そういえば、先日大王の宮に伺ったら、彦人皇子の御子、田村皇子がおられましたよ。確か、山背皇子より二、三歳年下であられる。どうやら近頃、頻繁に宮に出入りしているらしく」

「ほお、彦人皇子の御子が」

 厩戸皇子の意外そうな顔を見て、馬子は、それが演技かどうか判断できなかった。

「ご存じではなかったので」

「いや、このところ宮のことや何やらで、大王のご機嫌伺いにも無沙汰しているのですよ。しかしまあ、田村皇子は亡き他田大王の孫に当たられる。血の繋がりはないとはいえ大王もご自身の孫のように思っておられるのでしょう」

「とはいえ、竹田皇子の時のかわいがりようを知っている私としては、またご執心し過ぎないとよろしいが、などと心配してしまいまする」

「大王も、尾張皇子がご結婚なされてからお寂しかったのでしょう。よろしいではないですか、大王の気晴らしになるのなら」

 厩戸皇子は、全て自分に向けられていた額田部皇女の情熱が田村皇子に分散するのなら、そのほうが楽だと思った。


 斑鳩から帰った馬子は、ひとり思案した。

 先ほどの様子からすると、田村皇子の件、厩戸皇子は全く知らなかったようだ。

 考えてみれば、額田部皇女が田村皇子に近づくことは、厩戸皇子にとって何の得にもならない。

 田村皇子の父、彦人皇子は、厩戸皇子の従兄弟にあたるが、嘗て馬子らによって大王への道を断たれた。両親を皇族に持つ最も尊い血筋の彦人皇子の、その子とあらば、いずれ大王候補として名乗りを上げてもおかしくない。厩戸皇子としては、自分の子の将来を考えると、彦人皇子系の皇子は遠ざけたいところである。

 ならば、額田部皇女の一存か。

 馬子は、厩戸皇子の次には山背皇子を大王にと考えている。厩戸皇子も山背皇子を嫡男として認めている。厩戸皇子が大王になれば、次に山背皇子に王位が回ってくることはほぼ間違いない。

 山背皇子は、次世代の皇子の中でも、馬子から最も近い血筋の皇子である。馬子の孫であり、次期大臣毛人の甥であり、両親共に蘇我氏の血縁で、蘇我一族の人間であると言っても過言ではない。山背皇子が太子となったら蘇我の娘を嫁がせよう。そうすれば山背皇子は、母と妻、両方で蘇我氏と繋がる。

 厩戸皇子は馬子が岳父であろうと大伯父であろうと一切お構いなし、蘇我氏に気を使う人物でなかったが、厩戸皇子が死んだら、山背皇子にとって母方の蘇我氏だけが頼りのはずである。山背皇子ならば蘇我氏の思うままに操れるだろう。厩戸皇子に比べたらおおよそ凡人の山背皇子、彼の時代になるのを待とう。

 馬子はそう思っていた。

 しかし、ここへ来て、彦人皇子の存在が山背皇子の立太子に重くのしかかるかもしれないと、馬子は気づいた。

 彦人皇子は、田村皇子を含め三人の息子を遺した。いずれも皇族を母に持つ皇子である。彼らは、厩戸皇子の次の世代、山背皇子と同世代である。政治の表舞台から身を引き、ひっそりと暮らしていた彦人皇子だったが、正当な大王の血筋だ。その子らが脚光を浴びることがあれば、山背皇子の大きな障害となるかもしれない。

 額田部皇女の田村皇子に対するかわいがりようは、馬子の不安を掻き立てた。

 大王が田村皇子に恩情をかけるということは、大王に何らかの意図があると群臣に印象づけるだろう。皇子の中央への露出度は大きくなり、群臣の注目度も増す。蘇我氏系の大王が続くのを敬遠する人間が、田村皇子を担ぎ出そうと企てないとも限らない。もし田村皇子が大王になったなら、今まで苦労して作り上げた蘇我氏系の大王の系図を、また最初から作り直さねばならないのだ。皆が田村皇子の存在に目を向ける前に、厩戸皇子を即位させ山背皇子を太子とせねば。


 馬子の邪推とは裏腹に、額田部皇女は田村皇子のことなど深く考えていなかった。厩戸皇子との未来だけを考えていた。毎日、まだ見ぬ斑鳩の宮に思いをはせた。

 もうじき斑鳩の宮も完成する。新羅討伐軍が戻ってきたら、律の発表と官位の授与が行われるだろう。ならば、それらのことを、太子としてではなく大王として発表してはどうだろう。つまり、斑鳩宮が完成したら、まず太子に譲位する儀式を行う。そして、大王となった厩戸皇子の初めての仕事として、官位の授与式と律の制定を行うのだ。もちろんその時は自分が后として共にいる。皇子と一緒の宮に住み、これからの人生を皇子と楽しく暮らそう。

 そうしたら即位の祝賀の宴を開かねばなるまい。今までのどの大王よりも立派な宴を。季節なら夏。木々は青く、池には蓮の花が蕾を付け、鳥がさえずり、天も地も挙って祝福するのだ。斑鳩の宮の庭には、どのような花々が植えられているのだろう。今度、皇子に訊いてみよう。宴に使う杯や、衣装も、あれこれ作らねばならぬ。

 額田部皇女は、次々と新しいことを思いつき、楽しさが止まらなかった。

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