第43話

 宮の建設、法律や官位の草案作りに労する厩戸皇子が、額田部皇女をほったらかしにしている頃、皇女はその寂しさを別な方向に向けていた。彦人皇子の遺した田村皇子を、度々宮へ呼んでかわいがっていたのである。

 風体の上がらなかった父、彦人皇子に比べ、田村皇子はなかなか闊達で頭も切れる。

 額田部皇女の田村皇子をかわいがる様子は、まるで本当の孫に対するようであった。溺愛していた長男の竹田皇子は早逝し、次男の尾張皇子は既に独立して寂しかった事情もある。独身の娘がまだひとりいるが、母親にとって、娘に対する愛情と、息子に対する愛情は違うものなのだ。かつて竹田皇子を亡くした喪失感を厩戸皇子によって埋めたように、今、厩戸皇子に構ってもらえない寂しさを、田村皇子で補おうとしているのかもしれない。

 額田部皇女が田村皇子を宮へ招くようになって三回目、初めて共に夕餉を取った時のことである。

「わあ、すごいご馳走ですね」

 田村皇子が目を輝かせた。

 田村皇子の前に置かれた膳の上には、鹿の肉に野菜の炊き物や漬物、菜っぱ飯、甘い果物など数種の料理が並んでいた。

「そなたの口に合うか」

 額田部皇女は、特にご馳走を準備したわけでもなく、相手は子供、と普段通りの食事を準備させただけである。

「とても、おいしゅうございます」

 田村皇子は、子供らしく、次々と匙をつけていった。

「もっと、落ち着いて食べるがよい。食べ物は幾らでもある」

「はい。ありがとうございます」

 料理を平らげる田村皇子の無邪気な様子に目を細めながら、額田部皇女は言った。

「そなたの宮でもこのような品は出るであろう。さほど珍しくもなかろうが」

 田村皇子は屈託なく答えた。

「いいえ。私の宮では、新年でもこのように沢山の品が並ぶことはありません。さすが大王のお食事ですね」

 何の他意もなさそうな田村皇子の言葉に、額田部皇女は思った。

 もしや、自分が思っている以上、田村皇子は困窮しているのではないか。

 ふと、傍らで世話をしている釆女に目をやると、同じことを考えているのか、哀れむような目をして皇子を見ていた。

 現在、田村皇子は両親の遺産で暮らしている。

 田村皇子の父親である彦人皇子は、亡き他田大王の大兄だったとはいえ、彼が手にした遺産はその身分に対して決して多くなかった。他田大王の遺産は、后である額田部皇女の他、大勢いる妃や皇子皇女に分けられたからである。

 そういった事情から、彦人皇子は、他田大王の遺産相続権を持つ異母妹を妃に持った。

 当時、皇族や有力豪族の間で血族結婚が頻繁に行われたのは、一族の結束を強固にすると同時に、財産の分散を防ぐためでもあった。血族結婚をしていたのは彦人皇子だけではない。他の皇子皇女たちも同様である。額田部皇女は、亡き夫の財産を分散させないよう、自分の子孫が引き継いでいけるよう、竹田皇子のすぐ下の妹、小墾田皇女を彦人皇子と婚姻させ、そしてまた、彦人皇子の同母妹、逆登皇女を竹田皇子の妃にした。

 彦人皇子が死んだ後、田村皇子は父の遺産と母糠手姫皇女の財産で生活をしていた。彦人皇子は数人の妃を持ち、田村皇子以外にも子が多くいたため、田村皇子が手にした遺産はわずかなものだった。糠手姫皇女も他田大王の皇女だったとはいえ相続した財産は皇子たちよりさらに少ない。使用人の数も減らし、贅沢をせずに暮らしていたのである。

 田村皇子は皇孫という身分ではあるが、今後成人した田村皇子が独立して宮を作ろうと思っても、自分ひとりの財産では難しいのではないか、妻にする女性の財産をあてにしなければ生活できないのではないか、と額田部皇女は考えた。

 額田部皇女は、その日から、時節毎に食糧や反物などの品々を田村皇子へ届けさせるよう手配した。


 額田部皇女が田村皇子に恩情をかけているという話は、田村皇子の釆女から伝わって、すぐに馬子の耳にも入った。

「田村皇子を……」

 馬子の心中がにわかに曇った。

 田村皇子は、かつて馬子と額田部皇女が謀って大王候補から廃した彦人皇子、その息子である。亡き他田大王の孫に当たるとはいえ、額田部皇女にとって近い血族ではないし、蘇我家とは全く関係のない皇子である。

 竹田皇子への溺愛ぶりを見てきた馬子は、額田部皇女の情熱的な愛情が田村皇子へ注がれるのではないかと不安になった。

「それにしても、なぜ田村皇子を……」

 厩戸皇子を太子に任命してからというもの、額田部皇女の心が馬子にはわからなくなっていた。

「これも、厩戸皇子の策略なのか」

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