第40話

 額田部皇女と馬子にどういった考えがあってのことなのか、厩戸皇子にはよくわからなかったが、これで国作りに心置きなく集中できるのはありがたいと思った。


 かねてから厩戸皇子は、律令や官位の制定の他にもうひとつ、整った京が必要であると考えていた。大王が変わる度に宮を建て、京内にのべつもなしに宮が点在する、今の状態から脱却せねばならぬと思っていた。

 小野妹子や百済の大使の話によると、隋では宮殿を中心とした都市機構ができ上がっているという。碁盤の目のように張り巡らされた広路に、整然と並んだ建物。八間もある大路には人々が賑やかに往来し、それを取り囲む城壁は何里にも及ぶ。

「飛鳥にはそのような広大な京を作る土地がない……」

 妹子の話を聞き厩戸皇子は呟いた。 


 馬子は、飛鳥寺を中心とした京作りを飛鳥の地で進めた。蘇我氏の私寺である飛鳥寺の仏塔が大王の宮を見下ろす風景を、厩戸皇子は以前から違和感を持って眺めていた。この違和感は何から来るのだろう。

 飛鳥は元来蘇我氏一族の本拠地、物部氏が滅んだ今では周辺の土地も大臣の身内が取り囲み、飛鳥の地は蘇我氏に支配されているようである。厩戸皇子には、馬子がまるで蘇我氏を中心とした蘇我氏の京を作っているように見えた。

 太子に任命されてからずっと、厩戸皇子は、いつか自分が大臣と衝突してしまうかもしれない予感を持っていた。

 飛鳥の上宮に住んでいる今も、馬子の密偵に常に動きを監視されている気配がある。親しい間柄の秦造河勝や膳臣、或いは他の皇族や豪族に会うことも全て馬子に筒抜けなようだ。将来いつの日か馬子が反旗を翻したその時、蘇我氏の本拠地である飛鳥では自分の身を守る自信がない。或いは、自分は大丈夫でも自分の子供たちの代にはどうなるかわからない。

 そこで、飛鳥以外の場所に宮を建設し、大王を中心とした京を新しく作ろうと考えたのである。馬子との微妙な関係も、多少離れていたほうがうまくいくかもしれない。

 厩戸皇子は、新しい京の候補地として、自分の領地や信頼できる家臣の土地の近くを考えていた。第一に地形的に京を造るにふさわしく、第二に自分の信頼の置ける味方が近くにいて、第三に大陸への交通の要所である場所。この三点を条件に考えた結果、斑鳩こそがそれにふさわしいと思った。

 斑鳩周辺は最も愛する妻の実家、膳臣が支配している。信頼できる味方が周囲を守っているのは頼もしい。

 それだけでない。斑鳩は、海外への拠点、交易港である難波津と飛鳥の中間にあるのだ。

 厩戸皇子は、これからは大陸の進んだ文化や技術をいち早く採り入れることが重要であると考えていた。現に蘇我氏は、大陸から渡ってきた武器や鉱物の精製技術をいち早く手に入れ、今日のように発展した。

 現在、交易港の難波津と飛鳥を結ぶ主な街道は三つあるが、そのうちの二つ、竹内街道と穴虫街道は蘇我氏の領地を通っており、蘇我氏の手中にある。残るひとつは竜田道と呼ばれる、斑鳩を通る道である。厩戸皇子は、竜田道を押さえることで蘇我氏に対抗しようとしたのだ。しかも斑鳩は、陸路だけでなく水路でも難波津に通じている。難波津から竜田川を舟で遡れば斑鳩に、またそこから支流を通って飛鳥の京付近まで行くことができる。厩戸皇子に忠誠を誓って止まない秦造河勝の領地、山背国も近い。

 ただ問題は、額田部皇女と馬子をいかに説き伏せるかであった。


 暮れも押し迫った頃、厩戸皇子は、斑鳩に自分の新しい宮を造ることを大王に申し出た。

「年が明けたら、早々にも、新しく宮を作りたいと思います」

 額田部皇女は優しく微笑んだ。いずれは自分が皇子と共に住む宮である。反対のはずがない。

「それはよい。いずこに建てられる。磐余か、それとも豊浦か」

「斑鳩に建てとうございます」

「斑鳩。私の聞き間違いかしら。斑鳩と申された」

「はい、斑鳩です」

「斑鳩など、京から遠いではないか。ああ、私は別宮の話をしているのではない。そなたが即位する宮のことを聞きたいのです」

「いいえ、斑鳩を本宮にいたします」

 額田部皇女は困惑した。


 この飛鳥は、大王家の守護神とも言える三輪山の麓、代々の大王がこの地に宮を構え国を治めてきた。今では群臣の屋敷も立ち並び市もでき国の京として栄えている。先の泊瀬部大王は、蘇我氏の支配から逃れるために飛鳥のはずれ倉橋の地に宮を建てた結果、群臣の心も離れていったのだ。それよりも遥かに遠い斑鳩に宮を建てるとは、いったい厩戸皇子は何を考えているのだろうか。まさか、自分を飛鳥に置き去りにするのではないか。

「なぜ、そのような遠いところに宮を」

「斑鳩に宮を建ててはいけませんか」

 厩戸皇子は少し首を傾げ、上目使いで額田部皇女を見た。薄い唇の端を上げ、微笑みを浮かべている。

 皇子にこの顔で見つめられると、額田部皇女は何も言えなくなってしまう。

「飛鳥の地でもよかろうに」

「斑鳩の地は難波から京へ上る重要な拠点。大陸からの文化や技術をいち早く集めるには最適なのです」

「しかし、貴方は次の世の大王となる。斑鳩を京にしようと言うのですか。長年飛鳥で政を行ってきた大臣や群臣が納得しまい。斑鳩を京にするなら、群臣の屋敷も新たに作らねばならぬ」

「京が飛鳥であることには変わりありません。この当面は政は今まで通り飛鳥の地で行う、それは変わりありませぬ」

「どういうことじゃ」

「私は、この国はこれからもっと発展していくと思っています。いや、私が大きくしていきます。国が大きくなれば、京も大きくしていかねばなりません。それには飛鳥だけでは手狭。飛鳥は確かに北と西を山に守られ強固な要塞となりましょう。しかし、起伏の多く、更に先王の宮や墳墓が多い飛鳥の土地は、これ以上京を大きくしようにも困難きわまりない。難波から船で行き来のできる斑鳩の地に、整然とした京を作りたいのです。隋の国にはふたつの都があり、船で行き来できるといいます。これからは、飛鳥をそう、奥の京として、例えば他国の遣いが来た時、斑鳩から川を上り飛鳥で迎え、この国の京が栄えていることを見せつけられましょう。斑鳩には、宮だけでなく、宮を中心とした政治の場所と、仏教や学問、様々な技術を育て発展させて行く場所も作りたいと考えています。そうなると時間がかかりますゆえ、当分の間は飛鳥の宮で政を行おうと思います。飛鳥と斑鳩を行き来しても馬なら半刻もかかりませぬ」

「いずれは斑鳩で政を行うのか」

「私はそのつもりですが、状況に応じて飛鳥と斑鳩を行き来します。私も次の大王もまた大王が変わっても、斑鳩の宮で政をと思っています」

「しかしなぜ飛鳥でなく斑鳩」

「飛鳥には蘇我氏の氏寺、飛鳥寺の塔が大きくそびえ立っています。この先私や大王が寺を飛鳥に造ろうとすると、飛鳥寺と張り合うことになりましょう。飛鳥に二つの塔は要りません」

 額田部皇女は、厩戸皇子の言わんとするところがわかった。

「……先の泊瀬部は大臣を毛嫌いし、離れた場所に宮を構えあのようなことになった」

「私は大臣を嫌ってなどおりませぬ。今も大臣と協力してうまくやっているし、これからも大臣と争うつもりは全くありません。ただ、少し離れていたほうがうまくいくと思っているだけです。私が先の大王のようになるとお思いになりますか」

「そなたはあの愚かな王とは違う。しかし……」

「お許しいただけませんか。私があの地を選んだわけを、貴女にならわかっていただけると思っていたのですが」

 厩戸皇子は、目線を自分の膝元に下げ、寂しげな顔を作った。

「いや、許可しないと言っているのではない。ただ、理由を訊きたかっただけ。大臣にもきちんと説明せねばならぬゆえ、貴方の考えを聞ければそれでよい。貴方の宮のこと、好きになさい」

 額田部皇女は慌てて弁解した。自分は厩戸皇子の考えを一番理解している、そういった姿勢を見せたかった。

「ありがとうございます」

 厩戸皇子は、わざとらしく丁寧に頭を深々と下げた。


 その夜、厩戸皇子は額田部皇女の宮に泊まった。最近では、自分の要望を聞き入れてもらう為に額田部皇女の機嫌を取るのも、時には必要だと認識していた。額田部皇女との夜も戦略のひとつだと思うようになっていた。

 厩戸皇子の腕に頭をもたげる額田部皇女の耳元で囁いた。

「斑鳩には、大陸渡来の工夫を凝らした宮を、貴女の為に作りましょう」

「私の為に」

 額田部皇女は皇子の言葉を反芻し、その言葉に酔った。

「庭に美しい樹木を植え、冬には梅、春には桃が花を咲かせ、貴女が四季折々の景色を楽しめるよう、嗜好を凝らしましょう。私は貴女の喜ぶ顔が見たい」

 厩戸皇子はそう言うと、額田部皇女の耳元に熱い吐息を吹きかけた。

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