第39話
十二月に入ると、額田部皇女は厩戸皇子を宮へ呼んだ。
「ところでもし今、そなたが大王になったら、誰を后に立てるつもりじゃ」
厩戸皇子はぽかんと口を開けた。
「何をおっしゃるのです。貴女を后にする約束で、私は太子になったのです」
「本当に我を后にするのか」
「まさかお気が変わりましたか」
「いや、そのことを確認したかっただけじゃ。さ、今日はゆっくりしていかれるでしょう」
控えている釆女に目で合図をした。
「いえ、そんなにゆっくりとは」
「少し酒肴を召し上がるくらいの時間はあろう。忙しいといって、それほどの余裕もなくては」
「はあ」
間もなく、釆女が酒と肴の皿を運んできた。
厩戸皇子は、奇妙に思った。
ふたりだけの時は、額田部皇女の私的な別室で食事をするのが常であった。
厩戸皇子は、他の誰かが来る予感がした。
「これは干し鮑じゃ。伊勢から届いた」
厩戸皇子は、目の前の皿を見た。
冬だと言うのにこのような品を揃え、やはり誰か客が来るのか。
皇子が一杯目の酒を飲み終えようとする頃、釆女が告げた。
「蘇我大臣が来られましたが、お通ししてよろしいでしょうか」
「蘇我大臣が」
額田部皇女は厩戸皇子の顔を見た。
「構いませぬ」
ああ、やはりそうだったのか、と厩戸皇子は思った。
馬子が部屋に入ってくると、額田部皇女は釆女に合図した。
「おお、ちょうどよい、今、太子と話していたところじゃ。これ、大臣に酒を」
「これは、太子もご一緒でしたか。ご機嫌麗しゅう」
馬子が席に着くや否や、釆女が酒と酒肴の膳を持ってきた。まるで来訪に備え準備していたかのようである。
「このところ、とんと寒くなりましたな」
馬子と額田部皇女は他愛ない世間話をしながら酒を飲んだ。
「まったく、このよう気のせいか最近風邪気味で、気分が優れぬ」
額田部皇女は芝居がかった風に、頬に手をやった。
「それはいけませぬな。お大事になさらねば」
「先達ての彦人皇子のこともあろう。不安になってしょうがない」
「彦人皇子は元々身体の弱いお方でした」
「それで、いっそ太子に譲位しようと思うのだが、どうじゃ、大臣」
額田部皇女の突然の言葉に、厩戸皇子は咄嗟に馬子の顔を窺った。
「は、大王がそう思われるなら、それもよろしいかと思われます」
馬子は平然と酒を飲んでいた。
「ただ、太子はご聡明とはいえ、若干御歳が若うございます。先々のことなども考えますと、先帝の即位した年齢まで待たれたほうがよろしいかと存じます」
「皇子は幾つになる」
額田部皇女は、厩戸皇子に向かって言った。
「はい、年が明けたら二十八になります」
そんなことは額田部皇女も承知しているはずだった。
「ほう、二十八」
と、馬子が言った。
「ならば、三年後、太子が先帝の即位した三十一歳になったその年に、と言うのはいかがでしょう」
「おお、それは良い。そうしよう」
額田部皇女が嬉々として言った。
厩戸皇子は、ふたりのやり取りを見ていて、最初から二人の間で決まっていたのだと感じたが、何も言わなかった。
「太子も、それでよいか」
「はい、結構なお話だと思います」
厩戸皇子は深々と頭を下げた。
「うむ。そうと決まったら、宮も新しく建てねばなるまい。大臣にも世話をかけると思うが、よろしゅう頼みますぞ」
「微力ながら、私めにお任せくだされ」
ふたりの間でなぜ突然譲位の話になったのか、皇子にはわからなかったが、自分を抜きにして話が進められていたことを少々不快に思った。
一方、譲位を心に決めてからの額田部皇女は、霧が晴れたような清々しい気持ちだった。
ふたりの関係をもう誰にも隠さなくてよい。皇子と一緒の宮に住み、これからの人生を、皇子と毎日楽しく暮らすのだ。
そう思うと、自然に頬が緩んでくるのだった。
また、馬子の心も晴れ晴れとしていた。全てが馬子の思い通りになった。
これから律令を定め、厩戸皇子を即位させ、山背皇子を太子とし、隋に遣いを送ろう。三年後なら、山背皇子も成人して太子としてもふさわしくなる。そうして、隋と国交を結んだその後は……。
馬子はひとり、笑い出した。
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