第38話

 新嘗祭を数日後に控えた秋の午後、馬子はある決意を持って、額田部皇女の宮へ向かった。

 女帝は、いつ何時厩戸皇子が訪ねてきてもいいよう、常に化粧をし着飾っていた。

「実は」

 馬子は切り出した。

「群臣の中に、そろそろ厩戸皇子を即位させてもいいのではないかという者が出てきまして」

 額田部皇女は、時節の挨拶を聞くように、何の感情も示さなかった。

「ふうむ、それで。大臣はどう思うのじゃ」

「はあ、確かに最近の太子を見ておりますと、立派になられて、大王になってもうまくやれるだろうとは思います」

「ふむ」

 額田部皇女は、変わらずすました顔をしていた。

「ただ、今すぐはどうかと思います」

「と言うと」

「まだ、律令も制定しておらず、若い大王が即位するとなれば、できるだけ混乱を起こさぬよう、きちんとした律令を整備した国になってからのほうが、よろしいかと思います。それに」

 馬子は咳払いをした。

「太子の正妃の問題もありまする」

 額田部皇女の目がゆっくり馬子から逸らされた。

「私が案ずるのは、膳氏の娘のことでございます。正妃であった菟道磯津貝皇女も亡くなり、私の娘、刀自古郎女もいない今、皇子の妃は膳氏の娘だけです。私は、いつ、太子が膳氏の娘を正妃にしたいと言い出さないか、ヒヤヒヤしております。膳氏の娘は既に皇子も産んでおります。そういった意味でも、一刻も早く正妃を決める必要がありましょう」

 膳氏の娘、と言った途端、額田部皇女の細い眉がぴくりと動いたのを馬子は見逃さなかった。

「まさか、あのような娘の産んだ皇子など、皇子のうちに入らない。あんな娘が太子の正妃など、天地がひっくり返ってもないわ」

「私だってそう思います。しかし、いずれ太子が即位したら否が応でも后を立てねばなりませぬ。その時まで大王や私が元気ならよい。しかし、私ももう若くありませぬ。もし、毛人の代に太子が強引に膳氏の娘を妃に立てようとしたら、果たしてそれを承知してしまうのではないかと案じているのですよ」

 額田部皇女の顔から、みるみる血の気が引いていった。

「ならば、どうせよと」

 額田部皇女の声がかすかに震えていた。

「群臣の声を無視することはできませぬ。皆、先代の大王が即位した年齢を超えたら、太子を即位させるのが良いと言っております。数年のうちにことは動くでしょう。もし、その頃までに適当な妃が見つからねば」

 馬子は意を決して言った。

「額田部皇女、貴方が后に立たれませ」

 額田部皇女は仰天した。

 馬子が自分たちの関係を知っていると思わなかったのだ。

「なぜ、そのような」

 額田部皇女は口ごもった。

「それがかなわぬのなら、二、三年内に適当な皇女を太子に娶られますよう」

 額田部皇女は言葉が出なかった。

「大事な問題でございますぞ。よくお考えなさってお決めくださいませ」


 数日後、新嘗祭の儀式に額田部皇女は懸けた。

 夜明け前、儀式の宮の引き締まる暗闇の中、ただひとり祈祷する。

 今、厩戸皇子に譲位し、自分が后として立つべきなのか、神よ、お教え下さい。

 そう祈った。

 神の声は聞こえなかった。

 自分で考えて決めよ、とのことなのか。

 額田部皇女は寒々しい空気の中でため息をついた。

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