第35話

 額田部皇女がそのようなことを考えているとは知らず、厩戸皇子は遣隋使の帰りを今か今かと待っていた。

 そうして夏の風が吹く季節になった日、厩戸皇子の元へ筑紫から遣いが届いた。遣隋使が帰国したと言うことである。隋の遣いは同行していないということだった。しかし、小野臣妹子から、これから京へ戻り大王に報告する前に内密に相談したいことがある、と言ってきた。

 それはどういうことなのか、厩戸皇子は不審に思った。


 数日後、厩戸皇子は難波宮に赴き、遣隋使船が難波に帰港するのを迎えた。

 難波宮で遣隋使に労いの宴を振る舞っている間、厩戸皇子は宮の離れで妹子と密会した。

「まずはこれをお読みください」

 彼は緊張した表情で隋からの返書を差し出した。

「隋国で受けた待遇はあまり良いものではありませんでした。この返書の内容もご期待通りとは思えません。大王にこのまま見せてよい内容かどうか、太子に確認していただきたいのです」

 皇子が手紙を開くと、そこには想像していなかった辛らつな言葉が並んでいた。

 手紙の内容は「遠い昔に倭国王が安東大将軍であったようだが、自分は知らない。聞けば、倭国には法律もなく、倭国王が国を治めているのか、果たして国として成立しているのか疑問である。太子を大将軍にと言うならしてもよいが、そなたらの国の歴史と法律をまとめた書、そなたの国王が安東大将軍であったという証拠を見せてほしい。まずはそれからである」と、いったものであった。

「これは……」

 皇子は、手紙を掴んだまましばらく動かなかった。

 妹子が固唾を飲んで言葉を待った。

「……そなたの判断は正しかった」

 それを聞くや否や、妹子は床に頭をこすりつけた。

「申し訳ございませんでした」

「私は使者としての役を果たせませんでした」

「いや、そなたが悪いのではない」

「隋の国王に会う前に、役人からいくつか質問をされました。どのような律令があるのか、とか、王や太子はどういった人物か、王の下にはどういった役職があるか、など、通訳を二人挟んだこともありますが、おそらく私の受け答えが悪かったのです。申し訳ございません」

 何しろ百年以上も大陸の国とは国交がない。大陸に随の国が興ったのは二十年ほど前。随の役人たちも、昔の資料を調べたり、随国内にいる百済人や新羅人に様子を訊かなければ、倭国がどこにあるのかということすら知らなかった。

 妹子は大王に会う前段階として、役人から色々質問された。妹子の言葉を日本語がわかる百済人通訳が百済語に訳し、隋国人の通訳が百済語を隋の言葉に訳した。間に通訳二人を挟んでいるので、真意が伝わったかどうか疑問であった。

 大王の名称「倭国大王」についてもそうであった。

 この時代、大王が国書にする署名も印も、全て「倭国大王」の名となっている。決して個人名ではない。それは日本古来の習慣である。後に、大王が死んだら謚号をつける慣わしとなったが、この当時は過去の大王に対しては宮の名で呼ぶことが通例であった。皇子や皇女についても、通常は宮の名や通称で呼ばれていた。今上大王を呼ぶ時は何の装飾もない「大王」である。

 その理由のひとつには、古くから日本に伝わる言霊信仰がある。昔から呪術で人を殺そうとするときには名前を使う。大王を呪い殺そうとする人間に対し、それを防ぐために名前を使わないのだ。

 額田部皇女が隋に送った国書の署名も「倭国大王」となっていた。

「書の署名に倭国大王となっているが、王の名はなんというのか」

「王を何と呼んでいるのか訊いています」

「はい、オオキミと呼んでおります」

 こんなふうに、通訳を挿んでの会話は少しずつずれていった。時々通訳者同士だけで会話をすることもあり、見ていた妹子は不安を感じずにいられなかった。

 役人が倭国について調べている間も、妹子らは都の手前の川岸の館で何日も待たされた。妹子は自分たちが歓迎されているようには思えなかった。

 しばらく待たされた後、隋王に謁見できたのは、正使の妹子と副使、それと日本から連れて行った百済人通訳であった。

 隋王は、あらかじめ役人から日本国のことを聞き及んでいたので、謁見の時間は短かった。ただ「遠い国からご苦労だった。王によろしく伝えるがよい」と、それで終わりだった。

 その様子からも、妹子は自分たちが軽視されている気がした。

 妹子から説明を聞く厩戸皇子の表情は固かった。

 妹子はひたすら頭を床につけていた。

 妹子のその様子を見ているうち、厩戸皇子はだんだんと冷静になっていった。

「いや、法律が整っていないのは事実だ。そなたの責ではない。私の考えが甘かったのだ。辛い役目を引き受けさせてすまなかった」

 皇子は、尚も恐縮している妹子に労いの言葉をかけた。

「それでも、経文を写し持ち帰ったことは、褒美に値する」

「もったいのうお言葉」

「他の使者たちはどの程度知っている」

「はい。大王に面会を許されたのは、私を含め三人ですが、大王とは挨拶の言葉だけで、帰りにその返書をいただいたので、返書の内容のような話は誰も知りません。ただ、隋の港で長い間足止めされ、歓待の宴もなく待遇が悪かったので、皆はそのことを不審がっていました」

「そうか。……では、使者たちが京へ戻ってきたときに説明するとしよう」

 そうして、厩戸皇子は妹子に堅く口止めすると、自分は大急ぎで飛鳥に戻った。

 妹子の前では平静を装っていた厩戸皇子だったが、内心は頭を大木槌で殴られたような衝撃を受けていた。

 確かにこの国はまだまだ発展途上、追々整えていこうと思っているところであったが、それでも隋と対等につき合えると思っていた。自分は井の中の蛙だったのかもしれない……。

 隋を、また外交というものを軽く見ていた自分に気づいた。

 急ぎ飛鳥に戻った厩戸皇子は、隋からの返書を携えて馬子の屋敷を訪ねた。


「これは……」

 返書を読んだ馬子も、厩戸皇子と同様の反応を見せた。

「これは大王には見せられぬ。このような返書を見せたら、大王はお怒りになって二度と隋と交易しようとしなくなる。いや、それどころか、隋を敵視しかねない」

 馬子は唸るように言った。

「ええ、大王はもちろんなのですが、他の群臣の気が変わることを懸念しています」

「うむ。やっと説き伏せて派遣を納得させたのに。このような返答を知らせたら」

「ですから、知らせぬほうがよいと思うのです」

 馬子はきょとんとした。

 厩戸皇子は説明した。

「この返書はなかったことにしましょう。遣隋使は、帰国途中で百済人の盗人に遭い、荷物や返書を奪われた。返書の内容は、大臣と私と小野臣しか知りません。彼は頭のいい人間です。事情を理解するでしょう。大王や他の者には、隋は今は事情があり我が国へ使者を送ることができないが、国が落ち着いたらまた使者を送ってくるように、という話である、と伝えましょう」

「ううむ」

 馬子は再び唸った。

 そのような子供だましのような謀が通じるかどうかわからないが、正直に本当のことを話すよりはましであろう。ややもすれば、遣隋使を送ろうと言い出した自分が責任を取らされるのだ。

 馬子は、厩戸皇子の案を受け入れた。

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