第33話

 それから何日か経った寒い朝のことだった。

 額田部皇女の元へ彦人皇子の病気が重くなったと遣いが来た。彦人皇子は、病気を理由に新年の儀式にも参内しなかったのだ。

 額田部皇女は、厩戸皇子を代理として見舞いに行かせた。

 厩戸皇子は彦人皇子の宮へ出かけ、半時もしないうちに馬子と連れだって戻ってきた。

 まず馬子が言った。

「大層お加減が悪いように見えました。我々が行っても、ご自身の力で起きあがることができず、釆女らが身体を支えていました」

「そんなに悪いのですか」

 額田部皇女の言葉に、厩戸皇子も答えた。

「半分お命が尽きかけておられます。今日明日のお命かと思われます」

 馬子は、ぎょっとして皇子を見た。馬子も同様に感じたが、口に出すことは差し控えていたのだ。人が忌み嫌って口にしないような言葉を、平気で口にするのが厩戸皇子の恐ろしいところでもあった。

「まだ幼少の御子もおられます。皇子もさぞ気掛かりでしょう」

 馬子は、自分が彦人皇子を排除したことを棚に上げ、気の毒そうな顔を作った。

 

 厩戸皇子と馬子のふたりが宮を退出するのと入れ替わりに、釆女が彦人皇子の遣いの訪問を伝えた。

 釆女は庭に面した戸を開け、額田部皇女の部屋の前に御簾を垂らすと、遣いを庭へ通した。

 遣いは彦人皇子の舎人、迹見首赤檮とみのおびとのいちいであった。

 彼は、彦人皇子の舎人にはもったいないと言われるほどの豪傑で、蘇我氏と物部氏の合戦において、物部氏の総領、物部守屋大連を一矢で射抜いたその人である。また、先の王位継承争いの時には、彦人皇子を殺めようとした中臣連勝海を斬り殺し忠臣ぶりを発揮した。

 彦人皇子も赤檮には全幅の信頼を置き、自分の一番近くに仕えさせていた。おそらくは先ほどの見舞いの礼だろうと思われる。

 額田部皇女のいる部屋の前庭に案内された赤檮は、縁側の下で跪いた。赤檮は跪いたまま、挨拶の言葉を釆女に述べた。

 縁側にいる釆女が、その言葉を奥の部屋の額田部皇女に伝える。赤檮の言葉は額田部皇女に聞こえているが、皇女は舎人と直接に話さない。

 続いて赤檮は見舞いの礼を述べ、それをまた釆女が額田部皇女に伝えた。それに対して額田部皇女が返礼し、赤檮にねぎらいの言葉を掛け下がらせようとすると、赤檮は懐から木簡を取り出し、恭しく釆女に差し出した。

「彦人皇子からでございます」

 釆女は木簡を受け取ると立ち上がり、額田部皇女の元へ届けた。

 額田部皇女は木簡を開いた。

 中には、これまで世話になった礼と、自分の末息子、田村皇子のことが書いてあった。

 田村皇子は、妃のひとりである糠手姫との子である。糠手姫は他田大王の皇女とはいえ、その母は地方豪族出身の釆女だった。身分の高くない母を持つ田村皇子の、その行く末を彦人皇子が案じるのは理解できる。他の息子たちは既に結婚し独立している。心残りは幼い末息子田村皇子のことである。

 彦人皇子は木簡の中で、額田部皇女の血縁の娘を田村皇子と婚姻させてほしいと頼んでいた。父も母も早くに亡くした彦人皇子にとって、頼れる人間は継母である額田部皇女だけだったのであろう。

 大王の地位に最も近い皇子でいながら、大王になることを果たせないまま、今この世を去ろうとする彦人皇子。彼の心境はいかんばかりか。

 突然、額田部皇女の中に彦人皇子への同情心が芽生えた。

 以前は、自分の息子、竹田皇子にとって目障りな存在であった彦人皇子だったが、それももう遠い昔のこと。竹田皇子がいない今、何の蟠りもない。大王となるはずだった竹田皇子も、叶わぬままこの世を去った。彦人皇子も同じである。さぞや無念であろう。竹田皇子は後嗣を残すことも叶わなかったが、もし竹田皇子に子がいたなら、やはりその息子を残して死ぬのは何よりも気掛かりであっただろう。

 彦人皇子に、若くして死んだ愛息竹田皇子の姿が重なり、額田部皇女は急に、田村皇子を我が孫のように感じた。

 御簾の外に、額田部皇女のすすり泣く声が漏れた。

「大王は、彦人皇子のために涙を流しておられます」

 縁側にいた釆女が、赤檮に告げた。

 その途端、畏まっていた赤檮の身体が崩れ、地面に突っ伏した。

「皇子のために、大王が涙を流してくださるとは」

 赤檮は嗚咽しながら言った。

 日頃豪傑と言われる容貌魁偉の赤檮が、辺りを憚らずに泣いている姿を見て、回りにいる釆女たちも貰い泣きをした。御簾越しにその様子を見ていた額田部皇女もまた、涙が止まらなかった。

「よろしい」

 やがて、涙を拭った額田部皇女が口を開いた。

「彦人皇子の願い、確かに承知した。ご安心あれ、と伝えなさい」

 釆女からその言葉を伝え聞いた赤檮は、涙で顔を崩しながら、地面に頭を擦りつけた。

 額田部皇女の元へ、彦人皇子が息を引き取ったとの報せが届いたのは、二日後の早朝のことであった。残された末息子の田村皇子はまだ八歳であった。

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