第29話

 その後、馬子は厩戸皇子に対し目に見えて協力的になった。

 馬子は、額田部皇女の厩戸皇子への気持ちを確信した今、厩戸皇子に反抗的な態度を見せると、額田部皇女を敵に回すことになると思ったのだ。

 ただ、ふたりの関係は案外脆いかもしれないとも馬子は思っていた。ふたりの年齢差、強烈な個性を持ったそれぞれの性格を思うと、この関係が長続きするとは到底思えなかった。いずれ破局を迎えよう。ならば、その時が馬子にとっての好機なのではないか、その時まで待てばよい、と考えた。

 かといって、厩戸皇子の言うことを何でも聞き入れてしまう気は、馬子にはなかった。穏やかに、それでいて蘇我氏の権勢を背後にちらつかせながら、皇子と接した。

 皇子も馬子の意図を知ってか知らずか、必要以上に馬子に反駁することもなく、馬子の面子を潰すようなことはしなかった。


 その頃、飛鳥の京内には大陸からの渡来人を中心とした工人が大勢働いていた。大王の宮た飛鳥寺、豪族の寺院の建設に渡来人の建築知識や技術が必要だった。建築技術は、この国よりも高句麗や百済のほうが断然優れていたのである。

 馬子は、そういった渡来人と接しているうちに、次第に隋に興味を持った。

 今、大陸を支配しているのは巨大な帝国、隋である。周辺諸国を次々に併合し領土を拡げていった隋は、法律を定め、交通網を整備し、想像のつかないような大きな国を作り上げた。その土地も人も物資も、この国とは比較にならないほど豊富だという。

 馬子は時折、百済経由で渡ってきた隋の品々を手にするが、見事な細工の刀や馬具、金銀宝石を散りばめた装身具、硝子の器など、隋の資源の豊富さや技術の優秀さに感心せずにはいられなかった。隋の物をもっと手に入れたかった。物だけではない。優れた人材も多かろう。

 推古二年に仏教興隆の詔が出されてからというもの、群臣は馬子に倣い、挙って寺院を造り始めた。寺院を造るのは、自分の教養、信仰心、さらに一族の権力を誇示することでもあった。その動きは地方の豪族にも広がろうとしている。これから各地に寺院ができるとなると、国内の僧や百済や高句麗から呼び寄せる僧だけでは数が足りなくなるのは目に見えていた。馬子は隋からも僧を呼び寄せることができれば、と考えた。

 今まで馬子は、遠い随に行かなくとも百済経由で取り寄せれば済むことだと思っていた。随と直接関わりを持たなくても充分だと思っていた。随は遠い国なのである。随に行くには荒海を渡り、命の危険を伴う長旅をしなければならないのだ。

 しかし、どうやらそうはいかないかもしれないと思い始めた。

 隋は、周辺諸国を次々と支配下に入れ、巨大な帝国を作り上げた。北にも領土を広げ、さらには海も支配しようとしている。新羅などは早々に随の属国となり、朝貢しご機嫌を窺っているし、高句麗や百済も随に使者を送っているそうだ。今のうちに随に遣いを送ったほうがいいと、来日した百済人は言った。

 厩戸皇子が随と交易したいと言い出した時は、所詮は世間知らずの皇子の戯言と、真剣に考えずにいた馬子だが、こうして情報を吟味してみると、随と関係を持たずにいるのはおそらく不利であろうと考えた。我が国を随が直接攻めて来るとは思えないが、随を後ろ盾にした新羅が我が国にいつまで従っているだろうか。そうなる前に随と友好関係を結ばなければならない。随から和親したいと言ってくるのを待っていてはだめだ。

 しかし、かつて厩戸皇子に隋と交易などとんでもないと反対した手前、どうしたものかと馬子は思案していた。


 馬子が考えているうちに、厩戸皇子が先に動いた。

 夏のある日、厩戸皇子は豊浦宮の額田部皇女を訪ねた。

 盛夏のこと、宮の部屋は窓を全て開け放し、額田部皇女は傍らの釆女に団扇で風を起こさせ、気怠そうに座っていた。

 額田部皇女と向き合った厩戸皇子は、挨拶もそこそこに、今の世界情勢と、隋と国交を結ぶ有益さを理路整然と説明した。そして、早急に遣隋使を送るべきだとの意見を伝えた。

「随の先には天竺があります。天竺こそ仏教の中心地。優れた仏教の経典は、随を通らねば手に入りません。私は、我が国の者がいずれ自由に天竺と行き来できるようにしたいのです。そのためにも随と親しくしなければと考えております」

 額田部皇女は興味のなさそうな顔で皇子の説明を聞いていた。

「そなたがそれほど言うのなら、遣いを送るがよかろう」

 皇子が額田部皇女を説得するのは容易なことだった。

 その後すぐ、額田部皇女は馬子も宮へ呼んだ。

 随に使いを送るから太子と相談して欲しい、と申し付けた。

 それを聞いて馬子は、心中複雑であった。

 遣隋使を送ることになったことはありがたい。しかし、その主導権を厩戸皇子が握るのは芳しくないことである。

「いよいよ時機が来ましたな」

 馬子は、皇子に向かって落ち着いた声で言った。

「私も、そろそろ隋に遣いを出すべきではないかと考えていたところでして。以前、太子がおっしゃった時にはまだ時機が早うございました。ですから私は反対申し上げたのです。しかし今やっと、隋に遣いを送る時機が巡ってまいったようですな」

 馬子は、以前隋との交易を望む厩戸皇子に反対したことを時機のせいにしたが、厩戸皇子は一向に構わなかった。

「ふむ」

「今、隋は高句麗に属国となるよう働きかけているのですが、それがなかなか手こずっている様子ですぞ。隋も我が国が高句麗に協力しては困ると思うはず。我が国も、隋と交易することによって新羅や他の国々を牽制できます」

 厩戸皇子は黙って馬子の言葉に頷いた。一時は隋との交易を唱える厩戸皇子に反対した馬子だったが、その後研究し情勢を見極め判断するあたりが、やはり並の政治家ではない。

「私もそう思い、今がその時だと判断しました」

「しかし」

 同意する厩戸皇子に馬子はぴしゃりと言った。

「随は、他国を飲み込んで大国になった国です。新羅などは今やすっかり随に従っている。我が国に対してもどのようなことを言って来るかわかりませぬぞ」

「平和的に遣いを送る国に、無茶を言ってはこないでしょう」

「それはわかりませぬ」

「何かいい考えはありますか」

「我が国は、嘗て先王たちの時代に大陸の国から代々大王が安東大将軍の称号を得て、以来、半島や周辺諸国の管理を任されております。我が国の大王が安東大将軍であると確認の遣いを送ればよいのでは」

「安東大将軍」

 額田部皇女と厩戸皇子は顔を見合わせた。

「任那が奪われた時にも聞いたことがあるが」

 と額田部皇女が言った。

「それはいつの時代、誰のどこの国との話なのか、詳しくわかりますか」

 厩戸皇子は馬子に訊いた。

「ええ、古い書を調べるのにずいぶん手間がかかりましたが。まず、宋国の武王から応神大王に安東大将軍の称号を贈られています。その後、応神、仁徳、履中、反正、允恭、安康と、大王が変わる度、遣いを出して大将軍の地位を継承していたようです。雄略大王が最後です」

「それきりですか」

「ええ、その後あちらの国も戦続きだったようで、そういった混乱でいつの間にか往来が途絶えてしまった、というところですな」

「ふうむ」

「ならば、大臣の言うようにしてみよう。そのように随に遣いを出すがよい」

 額田部皇女は二人に言った。

「ただそう簡単なことでは」

 馬子が顔を曇らせた。

「大将軍という役職、本来なら大王がなるべきなのでしょうが、大王は女性でいらっしゃる、それでもよいというのなら」

 馬子が言いにくそうな言葉を最後まで聞かずに額田部皇女は言った。

「太子でよいではないか」

「は?」

 馬子は聞き返した。

「太子を大将軍にすればよいではないか。それならば時が来て太子が即位してもそのまま位は変わらぬ」

「太子を大将軍に、ということでよろしいので」

「うむ。遣隋使の件はそなたらに任せる。太子と大臣と計ってよきにすればよかろう」


 馬子が立ち去った後、額田部皇女は厩戸皇子に言った。

「こんなことなら最初からそなたが大王になればよかったのに」

 額田部皇女の不機嫌を隠さない様子に、厩戸皇子は気を逆立てないように気をつけて言った。

「私には貴女のように群臣を従わせることはできませんでした」

「ああ、早くそなたの子を産みたいものじゃ。私は毎日、神に祈っておる。そなたもちゃんと仏に祈っておるのであろうな」

 額田部皇女の皮肉混じりの言葉にも、厩戸皇子は努めて優しく言った。

「もちろんです。私も早く貴女の子の顔が見たい」

「ならば、もっと通ってきてもいいものを」

 彼女の不満はもっともである。厩戸皇子は、婚姻当初こそ月に一度ほど額田部皇女の元へ通っていたが、それがだんだんと足が遠のき、今では多忙を理由に年に三、四回となっている。膳菩岐々美郎女は、女子に次ぎ男子も産んだのに。

「私も、貴女とゆっくり日々を愉しみたいのは山々、しかし今はこの国にとって大事な時、私にはやらねばならぬことが沢山あります。しばらくは頻繁に通うことはできませぬが、国が安定するまでのこと、しばしご辛抱いただきたい。私も努力いたしましょう」

 そのような悠長なことを言っている時間は自分にはないのだ、と額田部皇女は言いかけた。だが、口に出すことで改めて年齢差を皇子に感じさせたくない。不満げな顔のまま黙って軽く頷いた。

 額田部皇女は政治に熱心すぎる厩戸皇子に不満を抱いていた。他田大王は、大王の位に就いていた時でもさほど忙しくなかった。他の大王も皆そうであった。政は大臣が仕切っていたからである。夫がいる頃は共に花見や舟遊びをしたり、温泉に行ったり、季節毎の宴を催し、ゆったりと日々を過ごしていたものであった。

 厩戸皇子は、国が安定するまでと言っていたが、彼が大王になったら、今以上に忙しくなるのではないか、そんな不安が額田部皇女の頭によぎった。

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