第28話
そうして春を迎えたある日、馬子は、厩戸皇子から「憲法」の草案の途中段階を大王に見せるので同席して欲しいと言われ、額田部皇女の宮を訪れた。
額田部皇女は、厩戸皇子と馬子の見守る中、草案の書いてある木簡を広げ、ざっと目を通すと馬子の手に戻した。
「大体このような感じでよいのではないか」
馬子は、手渡された草案を額田部皇女の倍以上の時間を掛けて読み、やがて草案を膝前に置くと言った。
「この草稿にはおかしな点が随分ございますな」
「おかしな点と申されると」
「例えば、大王の詔を受けたら必ず謹んで従え、の文でございます。大王に従うのは当然のこと、今さら条文化することもござらんでしょう」
厩戸皇子は涼しい顔で言った。
「その当然のことを、今後忘れる者が出ないとも限らないでしょう。条文化することで、皆の心に命じておく必要があると思っております」
厩戸皇子の言い草に、馬子は心の中で歯がみした。自分が先の大王に従わず、殺したことを皮肉っているのか。
「しかしながら申し上げますが、大王といえども過ちを犯す場合がございます。間違った命令でも、それに従わなくてはならないとおっしゃるので」
厩戸皇子の顔は崩れなかった。
「よくご覧下さい。それに関しても書いてあります。大事を決める際には必ず論じ合うべし、としています。大王とて同様。独断で決めることはありませぬ。皆で論議し決まったことを詔とするのです。そうして発表される詔は、大王の命令でありながら群臣の総意でもあるのです。何人たりとも覆すことはならない。当然、太子である私でさえも」
太子である自分が詔に従うのだから、大臣も逆らってはならない、馬子の耳にはそう聞こえた。
額田部皇女は、ふたりのやり取りを微笑みながら見ていた。馬子がたじたじとなっているのを見ると、すっかり頼もしくなった厩戸皇子、自分の夫を誇らしく感じた。今の彼には誰も敵うまい。やがて無敵の大王となった厩戸皇子と、后としてその横に並ぶ自分の姿を想像すると、得も言われぬ幸福感が沸き上がるのだった。
「ああ、腹の立つことよ」
自邸に戻った馬子は、息子の毛人を呼び出して言った。
「また上宮様ですか」
毛人は、父と会う度に厩戸皇子に対する不満を聞かされていた。
「太子もそうだが、大王のあの態度だ」
「大王がいかがなされまして」
「大王のあの目、まるで太子しか目に入っていない様子じゃったわ」
「上宮様の釆女が噂していると聞きましたが、まさか父上、そのような噂を信じているのではありますまい」
「いいや、今日わしは確信した。おまえはその場にいなかったからわからんのだ。大王が太子を見る目は、まさしく愛欲に取り憑かれた女の目だ。ああ、悔しい。いつの間にか大王を誘惑していたとは。いっそ、その前におまえを差し向けていればよかった」
「ばかなことをおっしゃるんじゃありませんよ。私にはそういった才がございません」
「才なんか必要ないさ。男とご無沙汰している寡婦なんざ、ちょっと甘い言葉を掛けてやればイチコロさ」
「父上、下品な」
「あの調子では、太子の言うことなら何でも聞くぞ。わしが何を言っても無駄なんだ」
「大王は、そこまで愚かではないと存じますが」
「いいや、恋に狂った女は愚かなんじゃ。女帝はとうに盛りを過ぎている。若い太子の気を引き留める為に、何でもしてやるに違いない。それこそ太子のどんなわがままも笑って受け入れるだろうよ」
馬子は完全に頭に血が上っている。
毛人は父に反論することを諦めた。
馬子が下がった後、額田部皇女は厩戸皇子を諫めた。
「あまり大臣を怒らせるようなことをなされますな」
その言葉とは裏腹に、額田部皇女は楽しくてしょうがないと言った顔をしていた。
「いけませぬか」
厩戸皇子は首を少し斜めに傾げ、不敵な笑みを浮かべて言った。
「いけないことはありませんが、大臣は私にとっても大切な人物、あまりからかってはいけませぬ」
「からかってるつもりなどございません。私は大臣と真面目にお話しているのでございます」
ほほほ、と額田部皇女は高らかに笑った。
「貴方は恐いもの知らずね。まあ、ほどほどにされるがよい。それはそうと、これから」
厩戸皇子は額田部皇女の言葉を遮った。
「これから私、飛鳥寺へ行かねばなりませぬ、これにて下がらせていただきます」
女帝の上機嫌はそこで終わった。
飛鳥寺には、厩戸皇子が師と慕う慧慈法師が住んでいた。飛鳥寺は馬子が建立した蘇我氏の氏寺であり、馬子の妾腹の息子、善徳が寺司である。厩戸皇子が伊予の旅から帰って間もなく寺は完成し、慧慈はこの飛鳥寺の住職に任ぜられたのだ。
馬子が力を入れて造っただけあって、飛鳥寺は立派だった。
漆塗りの三つの金堂に囲まれた、馬子自慢の五重塔、屋根瓦が春光を反射して金色に輝いている。飛鳥のどこにいても、そびえ立つ塔が見え、また、塔に上れば飛鳥中を見下ろすことができる。まさに蘇我氏の繁栄の象徴のような寺院だった。
「わざわざ太子が来られなくても、私が参りましたのに」
慧慈は穏やかな眼差しで言った。
「法師は私の師、私が出向くのが当然です」
慧慈は、この礼儀正しい皇子に、一緒に伊予へ旅した時とは違った落ち着いた空気を感じた。
「お噂はここまで届いておりますよ。太子のご活躍、我がことのように嬉しく思います」
「ありがとうございます。それもみな、法師との旅があったからこそ。あの旅で私は自分自身を見つめ直すことができました。法師のお陰です」
「いいえ、それも全て太子のご威徳。私はただ少し、お力添えをしただけでございます」
「あの時、法師と出会わなければ、今頃私はどうなっていたか想像するだけで恐ろしい」
「全て仏の御心。私こそ太子と出会い、多くのことを学びました。感謝しております」
慧慈は目を細めた。その目は、子の成長を慈しむ親のようであった。
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