第26話

 そうして年が明けた。

 真冬の寒さに関わらず、厩戸皇子は自室の戸を開け放し、庭に降る雪を見ていた。

 久しぶりの飛鳥の冬である。去年の今頃は、真冬でも雪の降らない伊予の国にいたのだ。

 現実から逃避していたあの時と比べ、今の自分はどうであろう。取り憑いていた悪霊を伊予の温泉で払い落としたように、心はこの冬の空気のように冴えわたっている。あの時、自分の心を閉じこめていた壺が、慧慈の言葉によって音を立てて飛び散った気がした。そして今、心は解き放たれ、際限なく広がりつつある。恐いものなど何もない、自分には無限の可能性がある。自分の使命と真正面から向き合える。

 際限なく舞い落ち世界を純白に変えていく雪を、厩戸皇子は飽きずに見続けた。心が清められていくような新年の始まりだった。


 正月二日、豊浦宮で賀正の礼が催された。大王が群臣から年始の挨拶を受ける儀式である。

 群臣が宮庭に勢揃いしたところで、額田部皇女が厩戸皇子を伴って現れた。

 大王額田部皇女は一段高い席に皆に面して座り、太子厩戸皇子が隣に座った。これは異例のことである。太子は通常、大王より一段下がった席、大王と大臣の中間に座るのが慣例である。

 額田部皇女は群臣からの挨拶を受け、返礼をした後、言った。

「皆が健康で新年を迎えられることを喜ばしく思います。太子も体調がすっかり回復し、今年からは政に参加したいとの意向、皆、よろしく頼みます」


 その午後、大王の宮では主立った群臣を集めての新年の宴が催された。広間には豪勢な料理が並べられ、大臣の馬子を筆頭に阿倍臣以下群卿が座している。

 皆の盃に酒が配られると、奥の一段高い席に額田部皇女、続いて厩戸皇子が現れた。

 今日の額田部皇女は、一段と綺羅を飾っていた。他田大王の后だった頃の晴れの日に着ていた衣装を久しぶりに身につけ、鮮やかな真紅の櫛に黄金の耳飾り、首には色とりどりの石の首飾りと、誰の目から見ても念入りに着飾っている様子は明らかだった。

 額田部皇女の横に座る厩戸皇子は、いつもと変わらぬ冷静な顔で、微かに口元に神秘的な笑みをたたえている。

 額田部皇女は席に着くと、横に座った厩戸皇子に甘えるような目線を送った。

 それを受けて厩戸皇子は座を見渡して言った。

「今宵は大王のお心遣いにより、新春を祝う宴が催されることとなった。誠にありがたきことである」

 額田部皇女はその様子を満足そうな顔で眺めていた。

 皆が拝礼すると、再び額田部皇女は恥じらいがちに、甘えるような目で厩戸皇子を見た。

 厩戸皇子は額田部皇女の目を見て頷いた。

「皆、存分に楽しんでいかれよ」

 挨拶が済むと、額田部皇女と厩戸皇子は連れ立って広間を出て行った。

 馬子は、このような顔をする額田部皇女を見たことがなかった。他田大王といる時でさえもである。馬子の喉元に言いようのない不快感が浮かび上がってきた。


「いやあ、参りましたな」

 宴が終わり、宮の門を出るや否や口を開いたのは阿倍臣鳥である。

「太子に対する大王の態度、まるで、夫婦のように見えましたよ。あ、いや、言葉が過ぎましたか」

 酒が入って上機嫌の境部臣摩理勢も調子よく言う。

「やはりあれは本当なのですかな。厩戸皇子が大王を妻にしたという……」

「しっ」

 馬子が口に指を当てた。

「軽々しいことを申すでない」

 額田部皇女と厩戸皇子は、ふたりの関係のことは秘密にしていたが、馬子が厩戸皇子の宮に潜入させている馬子の息の掛かった釆女から、馬子には伝わっていた。

 馬子の不機嫌そうな様子に、摩理勢は声を落として言った。

「女帝なら、男の大王と違って不用意に子供が増えることがないと安心していたがな、いやはや、こんなことになるとは」

「まったくです。大王はまだお若い。そうなったらいずれ、厩戸皇子の子も成すかもしれませんな。それにしても、息子と年の変わらぬ若い男とはね」

 阿倍臣は、そう言って笑った。

「厩戸皇子の子……」

 馬子の心の中に、再び暗雲が広がった。

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