第25話

「太子は病み上がりゆえ、しばらくは様子を見て、新年からゆるゆる動くがよい」

 そんな額田部皇女の言葉をよそに、療養の旅から帰ってからの厩戸皇子は、皆が驚くほど精力的に動いた。

 朝、宮廷で大王と共に朝参を受け、昼までは群臣の仕事や村の様子を見て回り、午後は自分の宮で勉強をし考えをはべらせていた。

 時には馬子の屋敷に赴き、議論をすることもあった。暮れも押し迫った頃、厩戸皇子は馬子の屋敷を訪ねた。

 奈良盆地の南東なだらかな丘の上に、馬子の嶋の屋敷はあった。飛鳥の地を、大王の宮さえも見下ろすそこは、まるで馬子がこの国を支配しているのだと言わんばかりである。

 丁重に、しかし威厳をもって挨拶する皇子に、馬子は冷ややかな口調で言った。

「このところの太子のご活躍のご様子、誠に良きこと、しかし、何と言っても病み上がりのお身体、無理をなさらぬほうがよろしゅうございますぞ」

「心配は無用、私は一刻も早く政を覚えたいのです。私は、この国がもっと富み栄えていくよう望んでいます。人々の生活も心も豊かな、皆が安心して暮らせる国にしたいのです」

「それはこの大臣とて同じこと。群臣も皆そう望んでおりましょう。ただ、国を繁栄させると言ってもなかなか容易いことではありませんぞ。具体的に太子はどういったお考えをお持ちで」

 馬子は心持ち顎を上げ、試験官のような目で厩戸皇子を眺めた。

 馬子の挑発的な態度にも、皇子は乗らず、努めて冷静に言った。

「国を豊かにするには、まず食糧です。人々が安心して農作業に精を出せるよう、政を安定させることが第一です。争いが起きて働き手が兵役に取られ田畑が荒らされるようでは、安心して農作業ができません。私たちは政を正しく行い、無駄な争いを起こさぬようにすることが大切だと思います」

 馬子は黙って聞いていた。

「そうして人々の生活が安定したら、次は道徳です。人々に道徳を広め、悪事をなくすこと。善悪の基準を明確にしなければなりません。今までは善悪や賞罰の基準があいまいで、国の隅々まで行き届いていません。人によって変わることもあります。しかし、それではいけない。京でも地方でも統一した善悪の基準を表すべきだと思います。例えば、隋の国では優れた律令があると聞きます。我が国でも律令を作り、詔として発令することが早急に必要だと考えています」

 馬子も法律の必要性は充分承知し、ゆくゆくは成文化しなければならないと思っていた。しかし、厩戸皇子から先に言い出されたことを不快に感じ、率直に同意はしなかった。

「私もそのことはずいぶん前から考えておりました。しかしながら、このところ政情が不安定でしたゆえ、国内が平穏になったらと考えております。地方にはまだ大王に逆らう民も多勢おります。彼らを平定してからのほうがよろしいかと。いかがですかな。何しろ太子は、長い間京を離れていたので、実状をまだ把握しておられないのはわかりますが」

 馬子の不誠実な返答を、皇子は気にすることなく言った。

「地方の平定はまた別の話、同時進行できるはず。大臣の力を持ってすればそれくらいできましょう」

「ただ、何でもかんでも隋の猿真似はいかがなものでしょう。確かにここら辺りでは、隋は最も大きく進んだ国ではありますが、この国にはこの国のやり方がございましょう」

「この国を発展させていく為に国の基礎を作らねばならないのです。それには、私の知る限りで最も進んだ大きな国、隋を手本にしようと思って何が悪いのでしょう。隋があれだけ大きな国となったのだから、やはり学ぶべき点が沢山あるはずです。猿真似ではありませぬ。先人のやったことを踏襲するのです。国が発展していくに連れ、この国に沿うように変えていけばいいのではありませんか。まずは国を国らしくするために土台を作ることが第一なのです」

 皇子は子供の頃から少しも変わっていない、と馬子は苦々しく思った。

「それから、国を繁栄させて行くには知識や技術が必要です。今、鉛の取り出し方などの技術は、ほとんどが渡来人に頼っています。これからは、我が国でも知識を深め技術を研究して、他の国々より先に行くことが必要です。そのために、才能ある者には専門的に学ばせること、名もなき者でも積極的に学ばせ、それが国を発展させていくと思います」

 馬子は形式的に頷いた。若い皇子と真剣に議論するつもりはなかった。 

「それらは、私めも同様に考えておりました。皇子はご存じないかもしれませんが、私や他の群臣も、皆、日々尽力しておりますぞ」

 そう言うと、皇子の目を正面から見据えた。

「しかしながら、言葉で言うのは簡単なこと。我ら一族、代々の王にお仕えして漸くここまでの国にすることができました。国を大きくし人民をまとめ上げるという仕事は、想像もつかないほど大変なことなのですぞ。ただ、太子の理想はわかりました。国を良くしたい気持ちは皆同じ、太子のお力、楽しみにしております」

 厩戸皇子が馬子の屋敷を出ると、外は日が高く上っていた。東にはもうじき完成する飛鳥寺の五重塔の瓦屋根が、黄金色の光を受け輝いている。

 厩戸皇子は馬を止めて冬空に突き刺さる塔を見上げた。


 厩戸皇子が帰った後、馬子は腕組みをしたまま動かなかった。馬子は厩戸皇子の態度に戸惑っていた。若者特有の生意気さだけではない。

 皇子の人並みならぬ英明さを馬子は良く知っている。それだけに、皇子を政治に関わらせたくなかった。できればお飾りのような大王になって欲しい。いかに皇子が英邁とは言っても、学問とは違い、経験が浅い政治に関しては通用しない。そう群臣にも皇子自身にもわからせるよう仕向けてきたつもりだ。一時は馬子の言うことをおとなしく聞いていた皇子だが、近頃の態度はどうだ。伊予で何があったか知らないが、皇子はどうやら馬子と対等に渡り合い、政を執る決意を固めたようだ。もし、先ほどのような議論を大王や群臣の前でされたらどうであろうか。厩戸皇子の言うことは正論であり、それは馬子自身もわかっている。それでも尚、皇子の意見を排除することができようか。

 馬子はしばらく目を閉じていた。

 やがて、馬子は目を開くと、皇子が今後どのような動きを見せるのか見極めるまでは、自身の言動を慎重にすべきだと考えた。

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