第23話
厩戸皇子の一行が伊予に逗留して一年ほど経った頃、葛城臣は慧慈に訊いてみた。
「太子はあんなに毎日元気に出掛けておられるのにご病気とはどういうことなのでしょう。本当に京へは戻らないおつもりではあるまいな」
「葛城臣はどう思われます」
慧慈は逆に葛城臣に聞き返した。葛城臣が心悪しき人物ではないことを慧慈は見抜いていた。
「はあ。太子を見ていると、京にいるときより遙かにお顔の色もよく、のびのびされている。もしかしたら、このままここで暮らしたほうがお幸せなのかもしれないとも思いますが」
「が?」
「あれほどのご英明な皇子、このような田舎に埋もれさせてしまうのは何とも。私など先の戦いであの方のお力を目の前で拝見しました。あの方には人智を越えたお力が備わっています。あの方こそまさに」
大王にふさわしい、と言いかけ、葛城臣は口をつぐんだ。これでは、馬子から申しつけられた命令に反することになる。
慧慈はそんな葛城臣の心中を察し、穏やかな笑みを浮かべた。
「私も宮様は並はずれた才徳をお持ちになっていると思っております。本来ならばこのような場所にくすぶっておられる御人じゃありません。でももし、京へ戻る気がないのでしたら仕方あるまい、それも天の思し召し」
葛城臣は慧慈を無言で見つめた。慧慈は皇子がこのままでもいいと思っているのか、わからない。
慧慈は続けた。
「人には皆、役割というものがございます。自分の役割に気づき、全うすることが大切なのでございます。自分の役割に気づかなかったり、役割を放棄するのは愚者のすること。本当に賢明な御人なら、いずれ気づくでしょう」
慧慈は、葛城臣の目を見てゆっくりと頷いた。
その頃、厩戸皇子はひとり山並みを眺め思っていた。
伊予に来て二度目の秋を迎え、厩戸皇子を取り囲む景色は再び錦に染まろうとしている。
「なぜ自分はここにいるのだろう」
こんなところで毎日を遊び暮らし、ぼんやり過ごしていていいのか。いったい自分は何をやっているのだろう。ただ無為に時間を過ごしているだけではないのか。
厩戸皇子は、自分が現実から逃避しているだけであることに気づいていた。京にいる大王や大臣、他の群臣たちのことを考えると憂鬱になる。自分の無力さを感じ、何もかも投げ出してしまいたくなるのだ。
「私は逃げているのだろうか」
ある朝散歩に出た際、厩戸皇子は同伴している慧慈に言った。
「はい。よくお気づきで」
慧慈はあっけらかんと言った。
「やはりそうか」
厩戸は苦笑を漏らした。
「私は京の人間関係の面倒なことは苦手だ。でも、逃げ出すことはもっと嫌いだ」
慧慈は、優しい微笑みを浮かべた。
「それならば太子は、貴方のなさることに反対する人間と戦う為、もっと強い気持ちをお持ちになることが必要です」
慧慈は、伊予に来た時と同じことを言った。
「私は何事も人に頼らず、充分に強いつもりでいた。それでもまだ弱いですか、私は」
「太子の心の中には、ご自身が気づかぬふりをしている弱さが見えまする」
慧慈は、今度は問答を拒まなかった。
「気づかぬふりをしている弱さ」
「誰にも弱みを見せてはいけない、誰も頼ってはいけない、そうご自分に言い聞かせて生きてこられたのでしょう。しかし、心のどこかで、お父上のように庇護し受け止めてくれる存在を欲しているように見えます」
「いいえ、私は」
言いかけて、厩戸は顔を紅潮させた。本心を見透かされた気がしたのである。
「それは悪いことですか。私だって時には誰かを頼りたくなります。人間とは弱い生き物、誰でもそういう気持ちを持っているのではないですか」
「いかにも。普通の人間ならば、誰かに相談し頼り甘える気持ちを持っていてもおかしくはありません。でもそれは普通の人間の話。大臣をご覧なさい。または大王でも良い。彼らにそういった甘えが見えますか。誰かに頼っているように見えますか。現実を直視なされ。よろしいか。父王が薨じられ、母君は新しいご家族をお持ちになっている。貴方を守ってくれる人間はいないのです。貴方を守るのは貴方自身なのです。自分以外の人間に頼ると、いつか必ず崩れます」
厩戸皇子は、幼い頃から大人たちに混じり議論し、大人の世界を見てきた。同年代の人間よりずっといろんなことを経験し、少々のことでは動じない心を持っている自信があった。精神的な強さだけではない。肉体的にも強くなければと、武術の練習にも力を入れ、武術の上達によって心の強さに磨きをかけた。父が生きている時は、何に対しても恐れを感じなかった。もちろん馬子に対してもである。
ところが今は馬子を恐れている。群臣の動向を恐れている。それまでの自分は父の庇護下で生きていたのかもしれないと、気づかされた。
橘豊日大王は皇子にとって理想の父だった。
皇子の人並みならぬ才能を見抜き、その才能を自由奔放に育てた。幼い頃から貴重な書物を存分に与え、優れた教師をつけた。皇子がもし違った養育をされていたら、もっと型にはまった人間になっていたかもしれないし、才能を存分に伸ばすことができなかったかもしれない。大王としての能力は平凡だったかもしれないが、厩戸皇子の父としては最適な男だったのである。
では、母、穴穂部間人皇女はどうであったか。
溺愛する父に比べ、子供の頃から母は淡泊であった。聡明すぎる皇子の物言いを、母は子供らしくないと叱った。そんな母に、厩戸皇子は子供らしく甘えることができなかった。
父が死んで悲嘆にくれている母を見て、これからは父の代わりに自分が母や弟たちを守るのだと決意したが、母は別の男に庇護を求め再婚し、宮を出ていった。
その時、母にとって自分は何だろうかと考えた。母は、弟たちや宮を全て厩戸皇子に任せ、皇子を権力闘争の渦中に置き去りにして、自身は新しい夫に守られ安穏と暮らしている。厩戸皇子は既に妻も子供もいて独立していたから母が遠ざかるのはわかるが、せめてしばらくの間、弟皇子たちの為に母親でいて欲しかった。いや、それは自分の為にそう思ったのではないか。厩戸皇子はまだ十代、気づかぬうちに甘えの心があったのではないだろうか。
そもそも、穴穂部間人皇女の再婚話は馬子から勧められた話であった。ここでも馬子と額田部皇女との合意があった。その時既に泊瀬部大王の暗殺を計画していた馬子は、大王の味方を彼から遠ざける画策をしていた。泊瀬部大王の同母姉である穴穂部間人皇女は、大后という地位にあり、重要な存在だったのである。また、泊瀬部大王の後に据えようと馬子が考えていた田目皇子と、厩戸皇子の母を再婚させ正妃とすれば、田目皇子の即位が近くなる。それは同時に、彼女から大后の地位を奪うことになり、厩戸皇子の庇護者をなくし皇子の力を弱めさせることにもなる。一方、額田部皇女も自分以外に大后という名の皇女がいることは許せない。よって馬子の計画に賛成したのである。
母の再婚に際して、厩戸皇子は苦言を呈した。
「田目皇子と再婚なさるということは、大后という地位をお捨てになることなのですよ。わかっておられるのですか」
「私は貴方たちの将来を案じているのですよ。大臣のお話、断ったならどんな類が及ぶことか」
母は母なりに考えたようだった。しかし、大后である母の方が大臣より身分が上なのだ。何を恐れるのだろう。自分や弟たちの為には、母が大后であるほうが有利であると考えつかなかったのだろうか。
「これからは何でも大臣に相談なさい。きっとよくしてくれます」
十八歳で一族の主となった厩戸皇子に、母はそう言い残して宮を出ていった。
その大臣に今、自分は破滅させられようとしているのだ。いったい誰に相談すればいいというのだ。
妻の菩岐々美郎女は、心の安らぎであり支えであるが、彼女には皇子を守れない。むしろ厩戸皇子が守ってやらねばと思っている。
自分を守ってくれる人間のいない寂しさを、慧慈はわかると言うのか。
「私は出家したときに、親兄弟と縁を切りました。この先も一生涯家族を持つことはないでしょう。しかし、それが寂しいこととは思いませぬ。貴方とこうして出会えたように、多くの人々と出会い、友を持ち、人の世に生きていくのでございます。人には、その人なりの果たさねばならないことがございます。私のそれは、仏にお仕えすることなのです。仏の教えを学び、多くの人々に伝えていく。それこそ私がこの世に生まれた理由なのだと思っております。私を守るのは、自身の使命感だと思っております。貴方には貴方の使命がある。この国を変えたく思っても、実際に国を変えられる立場の人間は数少のうございます。貴方が皇子として生まれ、太子になられた。それは大きな意味のあることなのではないでしょうか」
厩戸皇子は、自分が皇子として生まれた意味を今までも何度も考えてきた。なぜ自分は皇子なのか。なぜ自分だけが、大王や大臣に苦しめられなければならないのか。一般の民は相思相愛の相手と自由に結婚できるのに、なぜ自分は妻を選べないのか。愛してもいない女を妻にしなければならないのか。なぜ自分には、家族と共に心穏やかに暮らすことも許されないのか。それが天の意思なのか。それとも何も意味を持たないのか。なぜ天は自分を、田畑を耕し暮らす一般の民としてくれなかったのか。
「それは、貴方が天に選ばれた存在だからです。貴方なら、様々な困難を乗り越え、国を発展させ、人々を導いていくことができると、天は確信しているのです」
「天のご意志か。では、法師も天のご意志で僧になったとおっしゃられるのですか」
「そう信じておりまする。信じる心こそ何よりも強いもの」
「貴方はお強い。今まで一度も挫けそうになったことはないのですか」
「いいえ、若い頃には挫けそうになりました。寺を逃げ出そうと幾度思ったことか」
慧慈は高らかに笑った。つられて厩戸皇子の顔にも笑みがこぼれた。
「挫けそうになるとき、貴方はどうやって乗り切るのですか」
「自己の矜持です。寺を逃げ出し親に頭を下げるのが嫌だったからです。或いは家に帰れずに山里で盗みをしたり、乞食をしている自分を想像したとき、これは自分ではない、と思ったからです」
「これは自分ではない、と」
「修行などやめて、妻を娶り、田舎の村で家族に囲まれ畑仕事をして暮らす、そんな暮らしを思い描いたこともありました。が、すぐに目が覚めました。そのような暮らしをすることで、私の幸福が得られるのか。それが私の望む人生か。いいや、違う。私は真理を追い求める自分が好きなのだ、真理を追い求め人に伝える自分こそ私なのだ、そうでなければ、それは自分ではないのだと」
厩戸皇子は衝撃を受けた。まさに、自分もそうなのである。最近ずっと心に感じていた疑問、このような田舎でのんびりとした暮らしが本当に自分の欲することなのか、その答えには薄々自分でも勘づいていた。それを今、慧慈が言葉にしたのだ。
様々なことを学んで見識を高めたい。世の中の真実を見極めたい。自分を徳を高め、人々が道徳を重んじるよう導き、穏やかな気持ちで暮らせる平和な世にしたい。
皇子として生まれた自分が、自己を作ってきたのはそんな思いではなかったか。そんな世を作りたくて太子になったのではないか。自分のこの志、叶えられそうもないからといって諦め逃げるのか。ここで隠居生活を送るのか。いいや、それは自分ではない。誇り高く生き、常に志を持ち続ける自分こそが、自分なのだ。ならば、生きる道はただひとつ、前に進むしかない。思い悩んでいても何も変わらない。前に進むしかないのである。
厩戸皇子は、急に目の前の霧が晴れ、天上から光が降り注いできた気がした。
「ご覧なさい。里の民を」
慧慈は小高い丘に登り、下の集落を見下ろした。畑仕事に精を出す男たち、家々の竈から立ち上る煙が見える。
「あの者たちは、全て大王の民です。大王が志を持って国を治めていかないと、彼らの暮らしも不安定なものになるでしょう。大王が正しい方向を指し示し、人々を導いていかねばならない。貴方はそれができる御人です。人々を正しい方向へ導く力がある。ご自分を守ってくれる存在がいないと嘆いておられますが、彼らはどうでしょう。この国の民にとって、守ってくれる存在は大王なのです。貴方は守ってくれる存在がいない辛さを知っておられる。ならば、民にはその辛さを味わせたもうな。貴方が民を守り、国を守っていくのです」
「私が国を守る」
「強くおなりなさい。国を守れるほどに、今よりもっと強く」
厩戸皇子は、里を見下ろした。
そうだ。自分がやるしかない、精一杯戦うしかないのだ。
厩戸皇子は、自分の心の底から力強い何かが沸き上がってくるのを感じた。
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