第22話

 冬が来て、新年を迎えても、飛鳥京に厩戸皇子の姿は見られなかった。月日が経つに連れ、人々の口に厩戸皇子の噂が上ることも少なくなっていた。

「太子のご病気はまだ治りませぬか」

 季節が春を迎えようとする頃、馬子は、群臣の前で額田部皇女に意地悪く訊いた。まるで、厩戸皇子が政に復帰するのはもはや困難であろうことを、皆に悟らせるように。

「じき帰ります」

 額田部皇女は心の不安を顔に出さないよう気をつけて言った。

「それにしても長すぎるのでは。何か連絡はきているのですか」

 馬子は、葛城臣が京へ帰ってくる度に様子を聞き、随時送られてくる報告文から厩戸皇子の近況を知り尽くしていた。

 それらの報告から、厩戸皇子に不穏な動きは見られない。どうやら厩戸皇子にはその気がないらしい。自分が思っていたより、彼は度胸のない人間だったのかもしれん。そう思うと馬子は、今まで何を恐れていたのかと、笑いが止まらなくなった。

 しかしそんなことはおくびにも出さず、額田部皇女の前では馬子は素知らぬ顔をしていた。

「うむ。ゆるゆる良くなっている、何も心配せぬようにと」

 額田部皇女は嘘をついた。女帝の元には文ひとつ送られて来なかった。遣いをやっても、たまに伊予の国の美しさを詠んだ歌が返されてくるだけであった。

 厩戸皇子ときたら、何をどうして暮らしているのか。なぜ妻である自分に何も言ってこない。なぜ自分に助けを求めてこない。本当に病が重いのか。いつになったら帰ってくるのか。

 馬子に悟られぬよう平静を装っていたが、額田部皇女は焦慮に駆られていた。

 もうひとつ、馬子が厩戸皇子の太子としての資質を問う日を、額田部皇女は恐れていた。馬子だけではない。このまま時が経てば、他の群臣からも声が上がってこよう。

 額田部皇女は厩戸皇子を太子の座から降ろすことだけは避けたかった。廃太子にしたら、厩戸皇子は金輪際、大王になれなくなる。それは則ち、額田部皇女と厩戸皇子との婚姻の終了を意味するのだ。せっかく手に入れた厩戸皇子との縁を切ってしまったら、再び額田部皇女には退屈な日々が訪れ、この先何の楽しみもない長い年月を過ごさねばならないのだ。

 そうならぬうちに一刻でも早い帰りを、と、額田部皇女は待ちわび日々祈り続けていた。

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