第21話
伊予の国は美しかった。
連なる山並みを背に、遠くに光り輝く海が見える。春、鮮やかな木々の新緑が風にそよぎ、夏、海の碧と白雲が眩く、秋は山々を五色の絵の具で塗り替え、冬でも雪の降らぬ温暖な地に柔らかな陽光が降り注ぐ。
京のように欲しいものが何でも手に入るというわけにはいかないし、行宮は皇子が滞在するにはあまりにも質素だったが、ここには厩戸皇子の心を解放させる空気があった。
厩戸皇子は温泉に浸かりながら鳥のさえずりを聞いた。時間の流れが京とは違うような気がした。
いつか、菩岐々美郎女も連れてきてやりたい。
美しい景色を眺めながら、厩戸皇子は思った。
緑美しいこの武陵桃源のような地で、菩岐々美郎女とのんびりと暮らせたらどんなに楽しかろう。政治のことなど考えなくてもよい。うるさい大臣や豪族の顔色を気にすることもない。余計なことに心を煩わせることなく、一日一日を穏やかに暮らしていくのだ。何もかも忘れ世捨て人のように暮らせたら。
それは、厩戸皇子の病んだ心が見させた夢であった。決して許されることのない夢だと、皇子自身もわかっていた。叶わぬ空想に身をゆだね、現実から逃避していたのである。
「ここにいると、京へ戻りたくなくなる」
ある日の夕餉の席で、厩戸皇子は言いながら苦笑いをした。
慧慈は穏やかに言った。
「よろしいではありませんか。それなら、ここに永住してしまうのもよし」
「そうだ、ここに寺を建てて、出家して住もうか。良い案ではないか」
「それは名案。私も太子をお訪ねするのを口実に温泉旅ができます」
皇子と慧慈は、声を立てて笑った。
その様子を見ていた葛城臣には、ふたりの本心がわからなかった。
冗談なのか、本気なのか、それとも自分が馬子から遣わされた密偵であることに勘づいて警戒しているのか。
今のところ、厩戸皇子の口から馬子や大王に対する不満の言葉は聞かれない。毎日、狩りをし、山歩きをし、時折慧慈と仏教談義をし、温泉に浸かっている厩戸皇子を見ていると、本当にこのまま伊予の国に居着いてしまうのではないかという気さえした。
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