第20話

 当初、額田部皇女は、厩戸皇子が旅に出ることに反対した。

 四十を過ぎた額田部皇女は、一刻も早く皇子の子を産みたかったのである。皇子が京を離れる数ヶ月の時間も、額田部皇女にとっては貴重だった。額田部皇女には時間がなかったのだ。

 だが、慧慈の言うように、確かに最近の皇子は精彩を欠いている。それが病気だと言うのなら納得できる。今後の為には、この際病気を治したほうが良いのだろう。

 額田部皇女はそう考え直し、皇子の旅立ちを許した。


 厩戸皇子が慧慈と旅に出るというと、馬子は葛城臣かつらぎのおみ烏奈良おならや蘇我氏の家臣を遣わした。名目は身辺警護のためだが、身辺警護ならば皇子の舎人で充分役に立つ。大方、自分に近い葛城臣を同行させ、厩戸皇子を見張らせるつもりであろう。万が一、厩戸皇子が不穏な動きを見せたら即座に謀反の嫌疑をかけ殺す。厩戸皇子が謀反の心を持っていたとあれば、大王も他の群臣も文句は言えまい。

 供となった葛城臣は、日頃は厩戸皇子と親しくしているが、本来は蘇我氏の血縁の人間で、蘇我家の縁の葛城郡を治める豪族である。

 先だっての物部守屋大連との戦さで、葛城臣は蘇我側の兵として参加し、厩戸皇子が四天王に祈願するのを間近で見ていた。彼はその光景を今でも忘れることができない。

 蘇我軍の形勢不利を聞いた厩戸皇子が、自ら彫った白木の四天王の像を頭上に高く捧げ持つと、厚く立ちこめた雲の隙間から一筋の光が降り、厩戸皇子の身体を包み込んだのである。夢幻のような、この世のものとは思えぬ不可思議な光景。

 葛城臣のように眩い光を見た者もいれば、天から雷が降ってきて物部軍を撃ったと言う者もいる。葛城臣に同行していた家臣は何も見えなかったと言うが、それでも何か不思議な空気を感じたと言う。

 その直後、形勢が逆転し、戦さは蘇我軍の圧倒的勝利に終わった。戦いの勝利は厩戸皇子の力によるものだと、その場に居合わせた誰もが信じるほどに、たった十四歳の厩戸皇子は神性を湛えていたのである。

 そんな光景を目の当たりにした葛城臣である。大臣の命令とはいえ、厩戸皇子を陥れるのは本意ではない。皇子が不穏なことを考えていないように祈っていた。四天王の加護を受けた厩戸皇子を陥れるなどしたら、自分の身にもどんな災いが降りかかるかしれない。

 旅に出た厩戸皇子の心にも、不安がないでもなかった。留守にしている間、大臣が思うままに国を動かすのではないか、或いは京に戻った時に自分の居場所がなくなっているのではないか。

「太子はもっと強い心をお持ちなさい」

 慧慈は簡単に言う。

 慧慈に言われるまでもない。自分はこれまでも常に強くあろうと思ってきた。馬子や大人たちと対等に渡り合う度胸を身につけ、弱みを決して他人に見せぬよう努力してきた。それでもまだ自分には強さが足りないと言うのか。

「まだまだでございます」

 議論をしたがる厩戸皇子を、慧慈は優しく諭した。

「まあ、しばらくは何もお考えなさいますな。温泉に浸かり、良い景色を眺め、のんびり過ごすがよいでしょう」

 慧慈はそれ以上何も言わなかった。

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