第19話
慧慈が来日して三ヶ月ほど経った晩夏のある夕、突然、慧慈が厩戸皇子の宮を訪ねてきた。
「散策の途中、ふと皇子の宮が近くだったことを思い出し、立ち寄ってみました」
「おお、それは、よくぞ参られた、さ、中へ」
慧慈は、近頃はすっかり日本語が上達し、通訳を通さず話をすることが多くなった。その日も通訳を連れておらず、供の者を一人だけ連れていた。
「暑い中、さんざん歩いて供の者も疲れたでしょう。休ませてやってよろしゅうございますか」
慧慈は、穏やかに言った。
「もちろん、今、白湯など持ってこらせます」
皇子は、供の者を控えの間で接待するよう釆女に申しつけ、慧慈を客間に案内した。
釆女が木の実と白湯を慧慈の前に置くと、慧慈が軽い調子で言った。
「今日は太子と法華教の話などしてみましょう。ご接待は無用にございます。皆様もそのような話、退屈でしょう」
厩戸皇子と慧慈がふたりきりで話をすることは、今までに一度もなかった。厩戸皇子は慧慈の言葉に何らかの意図があることを読み取った。
「うむ、慧慈法師のお気遣い、皆、下がってよいぞ」
厩戸皇子はそう言って、釆女を下がらせた。
皇子と二人きりになると、慧慈は法華教の経文の一節を独り言のように唱えた。皇子が問い返す前に慧慈が言った。
「さて、最近の太子のお顔には、何か翳りが見られる。ご心配ごとでもあるのでは」
「なぜそう思われます」
「太子の瞳には憂いが見えます」
厩戸皇子は慧慈の言葉に一瞬戸惑った。しかし、ここ数ヶ月で慧慈の人柄はわかったつもりである。
皇子は思いきって打ち明けた。
「最近、よく同じ夢を見ます。この京が火に包まれる夢を」
「それは何を意味しているのでしょう」
「もしかしたら、その夢はこの国の未来を暗示しているのかもしれないと感じます。火に包まれる夢を見る度、私のしていることは無駄なのではないか、私が何をしても国が滅びるのではないかと思うようになります」
「それは違いましょう」
「私がいくらこの国を作っていこうと思っても、あまりにも非力で思うようにはなりません。私が正しいと思っていることは、本当は間違っているのではないかとも思います。こうしているうちに闇雲に時間ばかりが過ぎ、結局何も成せぬまま終わってしまうのではないかと思うのです。私が国を動かそうというのは奢りなのか、私には何もできないのか、そう思うと、考えることを辞めてしまいたくなります。たとえ今、私が何かしたとて、この国が火に包まれる未来は変わらないのかもしれないと」
慧慈は無言で目を閉じた。そしてゆっくり口を開いた。
「太子は今、ご自身の御心を見失っておられる。今しばらく京を離れ、政治からも遠ざかり、御心を見つめ直すことが必要かと思われます」
「私が自分の心を見失っていると」
「ええ」
厩戸皇子は慧慈の目をじっと見た。穏やかだが眼光鋭い慧慈と対峙していると、厩戸皇子は、自分が悩んでいるこの時期に慧慈が現れたのは、神か仏の導きではなのかという気がしてきた。
「京を離れる、そんなことを大王がお許しになるだろうか」
「ご病気の療養だとおっしゃればよろしい。私もご一緒いたします」
そうして夏が終わる頃、厩戸皇子と慧慈は湯治場として有名である伊予の国へと旅立った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます