第18話

 馬子は、慧慈の為に住居も使用人も全て用意していた。表向きには慧慈は国賓であるが、実際のところは、蘇我氏の私寺の住職として馬子が莫大な金を使って招いた僧であった。

 飛鳥寺は私寺としてこの国で初めて建立される寺院である。仏教を押し進めている馬子は、大臣として他の豪族に先だって寺院を造る必要があった。大陸の進んだ国々では、立派な寺院があることが文明国家の証とまで言われている。馬子は、百済から招いた寺工、瓦博士などの一流の技術者を呼び寄せ、人々が今までに見たことのないような立派な寺院を造ろうとした。荘厳な寺院に優れた住職。仏教を普及させ国を発展させていくためにも、また蘇我氏の威厳を誇示するためにも、高僧として名高い慧慈は大切な客人であったのだ。

 馬子は、飛鳥寺が落成するまでなら、との条件で慧慈を厩戸皇子の教師とすることを約束した。今、馬子は飛鳥寺の建立や政のことで忙しい。無理を言って招いた高僧慧慈を放ったらかしにして置くわけにもいかず、かといって、馬子の家臣では満足に慧慈の相手は務まらない。渡りに船だったのが正直なところである。同時に、厩戸皇子の関心を政治から遠ざけることもできる。


 厩戸皇子は慧慈を師として以来、頻繁に慧慈を宮へ呼び、仏教や大陸の文化について教えを乞うた。馬子や額田部皇女に心煩わせる中で、唯一それらを忘れる時間だった。

 慧慈の教えは、問答形式だった。

「この国には古来の神がおられ、大王をはじめ皆、神を崇拝しています。それなのになぜ、大陸から来た仏を崇め祀ろうとするのでしょう」

 厩戸皇子は答えた。

「神と仏は違うものだと私は考えております。神は、山や川や木や田畑、そういった、人間ではないものを管理している、つまり、人間がいてもいなくても神は存在し、私たち人間は神のものである土地や水を使わせてもらうのだから祈るのだと思います。仏は人間に対する教えです。私たち人間が心正しく生きるように教えてくれる。私が思うには、神道は祈るもの、仏教は学ぶもの。人には両方とも必要なのです」

「仏教は学ぶもの。では、景教はどうでしょう。景教はご存じですか」

「ええ、以前、耳にしたことがあります。詳しくは知らないのですが、学ぶべき点が沢山ある優れた教えだと思いました」

「ならば、この国に広めようとお考えになりませんか」

「景教はこの国の人民に受け入れられにくいと思います。景教には全てを司る神の存在があり、この国の神々と折り合わないのです。それに」

「それに?」

「私自身、まだ景教の教えに納得できていない部分があります。私自身が納得できていないものを人民に教えるなどできません」

「なるほど。太子のお気に召さなければ認められないと」

 慧慈の言葉に、厩戸皇子は顔を赤くして反論した。

「そうではない。そうではなく……。いや、そうかもしれない。私は自分が正しいと思ったものを人々に広めたいと思っているけれど、それが人民にとって正しいとは限りません。そう、私を含め、国を治める立場にいる者は、自分たちにとって都合のいい宗教や思想を人民に押しつけているのかもしれません。私の中にもそういった心があるのかもしれない。どうしたらよいのでしょう」

「大王や太子ならば、様々な思想や宗教を勉強し、その中から自分が正しいと思うものを選ぶことができます。しかし、書物を読む機会も与えられない多くの人民はどうでしょう。彼らには選択の自由はありません。大王が仏教を崇めるようにと詔を出したら従うしかないのです。ですから、国を治める者が公正な立場で物事を考え、判断できる力を身につけることが重要と考えます」

「そうですね。まず、為政者自身が徳を高めなければならない。宗教に限らずとても大事なことだと思います」

 慧慈は満足げに頷いた。

「その通り。もうひとつは、先ほど太子がおっしゃられていたけれど、ご自身が絶対正しいと過信されないことも大事です。私が言うまでもなく、太子はお気づきになっておられるようなので心配無用と思われますが」

「いいえ、人の心は変わる、いつか私もそのことを忘れるかもしれません。その時は、慧慈法師、遠慮なくご指摘下さい」

 慧慈は、厩戸皇子が見込み通りの人物であることを感じた。皇子が大王となり国を治めれば、後世まで名の残る英主となると確信した。

 厩戸皇子は、人々に道徳観念を持たせたかったが、その前にはまず国を豊かにし人民の生活を安定させねばならないこともわかっていた。まず国の法律や制度を整え、人々が安心して暮らせる国を作ることが先決である。

「私はこの国を新しく作っていきたいのです。ただ」

「ただ?」

「いえ、何でもありません」

 傍らに控えている通訳や慧慈の世話係は、全て馬子の家臣である。皇子はそれ以上のことを話せなかった。

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