第17話
そうして、厩戸皇子が思い悩み何も解決しないまま、ただ闇雲に季節が過ぎた。
厩戸皇子が太子に任命されてから二年が経った推古三年五月、高麗の高僧、
慧慈は、仏教だけでなく儒教や他の宗教、また天文学、地理学等にも精通し、その人となりは徳高き聖人として名高かった。馬子が建立中である蘇我氏の氏寺、飛鳥寺(法興寺)に、是非大陸からの高僧を住職に招きたいと切望し高麗に申し入れて、ようやく来日するに至ったのである。
かねてより高僧慧慈の噂を耳にし来日を待ちわびていた厩戸皇子は、早速自分の宮に招いた。
慧慈は、馬子の用意した通訳と世話係を従えてやってきた。
厩戸皇子は、向かい合って座る慧慈の顔を眺めた。穏やかな仏のような顔をしている。
「太子のお噂は伺っております。この国随一の博識でいらっしゃると存じ上げております。私のような愚僧が、まだ何かお教えすることがあるのでしょうか」
「いいえ、確かにこの国の中では、私は物を知っているほうかと思います。しかし、世界は広い。海の向こうの国々には私が知らないことが沢山あり、まだまだ勉強しなければなりません。是非、慧慈法師の教えを乞いたいのです」
厩戸皇子の真っ直ぐな瞳に、慧慈は好感を持った。
「太子はなぜ、書物を読み、様々なことを知り、学びたいと思われますかな」
「私の心が欲するのです。私の心が、もっと知識を身につけよと言うのです」
「ならば、五行博士か僧になられたほうがよろしいのでは」
「いいえ」
厩戸皇子はきっぱり言った。
「私はただ、知識を身につけたいだけではないのです。慧慈法師もご覧になった通り、この国はまだ小さく不安定です。人民の心もまとまっていない。私は、整然とした国家を創りたいと考えております。そして、道徳教育の行き届いていないこの国の人民に、広く仏教や儒教の心を教えたいと思っています。その為には、私自身が沢山の知識を得て、徳を身につけねばならないと思っているのです」
「ふうむ」
慧慈は、あらためて厩戸皇子の顔を見た。稀に見る、聖者の相である。
慧慈は来日直後、大王の宮と馬子の屋敷それぞれに招かれた。
執政のほとんどを大臣に任せている女帝の、もっとも重要な仕事は神前に供物を捧げ祈祷することだと聞いた。女帝には神性が感じられ、古代の巫女を思い起こさせた。ただ、仏教に特に関心はない彼女から、真剣に仏教を学ぼうという気持ちは感じられなかった。
慧慈は思った。この大王では、国はいつまでも未開のままだと。
一方、大臣は政治家である。頭の回転も速いし、情勢の見極めも鋭い。国を豊かにしていこうという政治理念を持っている優れた政治家である。しかし慧慈は大臣に違和感を抱いた。彼の仏教に対する気持ちは純粋ではない。政治のために仏教を利用しようとしているように感じられた。そもそも、この国に於いて歴史のない蘇我氏が、先祖代々神を祀る物部氏に対抗して新しい宗教を普及させようとしたのだ。それだけでなく、大臣には何かが欠けていると思ったのだが、厩戸皇子に会った今、大臣に欠けている何かがわかった。
「太子は、仏教や儒教の心を人民に伝えたいと」
「私がこれまで学んだところ、仏教や儒教では礼節や徳、無欲の心を説いています。その心を学べば、人々が憎しみや恨みの心を抱かずに暮らせるのではないでしょうか。全ての人民が憎しみや恨みによって争うことなく、平和に暮らせる国を望んでおるのです」
「太子のおっしゃることは私もよくわかります。私も憎しみのない世の中にしたくて、このような僧となりましたゆえ」
慧慈の言葉は、厩戸皇子の心に反響した。
厩戸皇子の周りの人々は、自分の利益のことしか考えていない。皇子がいくら徳を説いたとて、人々の私利私欲の前には非力であった。一般の民ならば尚更、礼節や徳よりも日々の生活、食糧のほうが大切であった。慧慈のような人間を見たことがなかった。
「私が求めていたのは、慧慈法師、貴方のような人です。是非、私の師となり御教授いただけませんか」
厩戸皇子は頭を下げた。
太子という立場に奢らないその謙虚な態度を、慧慈は好ましく思った。
「太子の御心はよくわかりました。愚僧が貴方のお役に立てるなら、喜んでお引き受けいたしましょう」
「ありがとうございます。大王には私から話しておきます」
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