第14話

 厩戸皇子の悪い噂も、皇子がどのような状態にあるかも全て、額田部皇女は把握していた。額田部皇女は従者を使って、京中に情報網を張り巡らせていたのである。

 厩戸皇子と馬子とのやり取りの報告を受けた額田部皇女は、こらえきれないように笑った。

「うふふ」

 釆女が不思議そうな顔をした。

「何がおかしいのでしょうか」

「おもしろいではないか。何の弱みも見せない厩戸皇子が困っている姿など、そうそう見られるものではない」

 なかなか自分に愛情を示さない厩戸皇子が、馬子に苦しめられている姿は、額田部皇女のある種の情欲を刺激した。馬子なんぞにやりこめられる厩戸皇子の惨めな姿を見たくはなかったが、一方で、完璧で誇り高い厩戸皇子が崩れていくのを見るのは、皇女の興味をそそった。そして、痛めつけられ傷ついた皇子が、自分の胸に顔をうずめ、涙を流し助けを乞うのを待っていた。


 人の噂などすぐに消える、時が経てばまた元の通りになる、そう思っていた厩戸皇子だったが、秋が過ぎ冬を迎えても事態の好転は見られなかった。

 相変わらず馬子が政治を仕切り、皆の心は離れ、額田部皇女からは夜を強要される。このままではこの国を良くしていくことはおろか、大王にもなれないかもしれない。


 厩戸皇子が思い悩んでも、どうしていいかわからなかった。

 皇子には相談する相手が誰もいなかった。他人に弱みを見せるのを極端に嫌う生来の性質から、私的な問題は全て自分ひとりで処理してきた。誰かに救いを求めるなど考えたことがなかった。

 皇位継承権を持つ皇子として生まれた厩戸皇子は、友人と呼べる存在を持ったことがなかった。他の皇子たちは競争相手であり、心を許せる存在ではなかった。競争相手になり得ない格下の皇子たちと話すと、母が嫌な顔をした。回りにいる舎人たちも所詮は豪族の息子、滅多なことは話せなかった。


 肉親はと言うと、母である穴穂部間人皇女は再婚し田目皇子の宮で暮らしているし、弟たちはまだ歳若く頼りない。子供の頃から政治に関わってきた厩戸皇子と違って、弟たちは普通の少年、こういった政治の駆け引きには慣れていない。田目皇子や腹違いの兄は、弟たちよりはずっと頼りになるはずであったが、彼らと接することを両親に禁じられてきた。


 信頼できる人間は、妻、菩岐々美郎女の実家の膳臣、長年の付き合いの秦造河勝などがいるが、彼らに額田部皇女との密約を話すわけにもいかず、また、彼らに累が及ぶのは避けたかった。

 帰するところ、厩戸皇子は、この状況を自分だけで解決するしかなかったのである。


 厩戸皇子は菩岐々美郎女のいる斑鳩を頻繁に訪れた。

 飛鳥では、常に馬子の密偵に見張られているようで気の休まると時がない。厩戸皇子の宮に仕える舎人や釆女の中にも、馬子の息のかかった密偵がいるのは前々から感じている。斑鳩にいる時だけが自分の時間のように思えた。


 厩戸皇子は、自分が太子になったのは失敗だったのではないかと思い始めていた。

 あの時、額田部皇女の提案を受け入れたのは、軽率だったのではないか。こうすれば、自分の理想国家を作り上げることができると考えたのは、浅薄であったか。額田部皇女は、厩戸皇子を矢面に立たせ、自身の保身を考えていたのではあるまいか。

 厩戸皇子が菩岐々美郎女の部屋でぼんやり窓の外を眺めていると、郎女が白湯を持って部屋へ入ってきた。

「庭の桃がもう咲きそうですのよ」

 菩岐々美郎女の言葉に、厩戸皇子はすぐに反応しなかった。

「え」

「また何か政のことをお考えでしたのね」

「すまぬ。気に掛かることがあって、つい。……今日は帰った方がいいかもしれない。そなたを楽しませる話もできない」

「構いません。皇子が何もおっしゃらなくとも、私は皇子のお顔を眺め、同じ空気を吸っているだけで充分楽しゅうございますもの。本当ですのよ。ですから存分に考えごとをなさってくださいまし」

 菩岐々美郎女はそう言って、いたずらっ子のように微笑んだ。

 厩戸皇子は、郎女の腹にそっと手を触れた。彼女の腹には皇子の子が宿っていた。

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