第13話
それからしばらくした秋の日の午後、厩戸皇子は膳菩岐々美郎女の住む膳臣の斑鳩の屋敷を訪ねた。
厩戸皇子は、遠乗りのついでと称して頻繁に斑鳩へ訪れていた。そのまま泊まっていくこともあるし、一刻も立たぬうちに帰ることもある。たとえ夜を共に過ごさなくとも、菩岐々美郎女の顔を見るだけで厩戸皇子の心は癒されるのだ。
しばらく話をしていると、人が来て菩岐々美郎女を部屋の外へ呼び、何やら耳打ちをした。部屋へ戻った菩岐々美郎女は皇子に言った。
「秦様が来られたとのこと、父の部屋へお寄り下さいませ」
部屋には菩岐々美郎女の父である膳臣傾子と秦造河勝がいた。
二人とも、皇子の顔を見ると、緊張で顔をこわばらせた。
「いかがなされた。おふたり揃って」
河勝は膳臣と顔を見合わせ、目で頷くと言った。
「近頃、妙な噂が流れています。ご存じですか」
「妙な噂というと」
「先の大王を殺めたことにございます」
河勝は声を潜めて言った。
「先の大王を殺めたのは大臣の家臣東漢直駒であることは周知の事実、もちろんそれを命令したのが誰であるかも、わかりきったことでありましょう。しかし、近頃、おかしな噂を聞きまして」
「回りくどいぞ、河勝、要点を言え」
「は、実は、刀自古郎女を利用して、厩戸皇子が駒を使ったのだと」
「何」
思いがけない河勝の言葉に、厩戸皇子は大きな衝撃を受けた。
しかし、二人の手前、皇子は冷静を装った。
「で」
「皇子が大王になりたいが為に、駒を利用して先の大王殺しの計画を立てたと。もちろん、噂を操っているのが誰であるかは明白。かくなる上は」
「言うな、河勝」
皇子は河勝の言葉を遮って、ぴしゃりと言った。
「そなたは何も言うな。何も聞くな。ただの噂だ、黙ってやり過ごせ」
「しかし皇子」
「動いてはならぬ。心配するな。そんな噂、やがて消える」
河勝は、何か言いたそうな顔をしたが、黙って下を向いた。
宮へ戻る帰り道、厩戸皇子は一言も口をきかなかった。
菩岐々美郎女と会った後はいつも上機嫌の皇子だったが、眉間にしわを寄せた様子に、つき従う舎人たちも敢えて皇子に話しかけようとしなかった。
膳臣や河勝にああは言ったものの、厩戸皇子の心は大きく動揺していた。
誰が噂を流した張本人かは大体わかっている。そのような噂を流して得をする人物はひとりしかいないのだ。厩戸皇子に罪を着せることで、馬子は大王殺しの汚名を返上することができる。
厩戸皇子は、自分が政に参加することが、馬子によく思われていないと感じている。しかし、刀自古郎女の件で心を痛めている皇子に対して、その心を踏みにじるようなことをするとは思ってもみなかった。
刀自古の死を伝えに来た時の馬子の言葉は、皇子に申し訳ないとひたすら頭を下げたあの涙は、嘘だったというのか。実の娘の死を利用してでも自分を陥れたいのか。それほどまでに自分を厭うているのか。
厩戸皇子は、馬子という人物がわからなくなっていた。
泊瀬部大王が殺害された当初、大王を疎ましく思っていた京の群臣は馬子の家臣東漢直駒を英雄扱いにした。「愚王を殺した忠臣」と賞賛した。
その歴史にない弑逆に対して、やがて地方の豪族たちから非難の声が聞こえはじめると、京にいる群臣も態度を変えた。殺害したのはやりすぎだったのではないかと言い出し、馬子の立場を微妙にしていった。
そこで馬子は、大王殺しの汚名を厩戸皇子に着せることを思いついたのだろう。これについては、日頃の皇子の聡明さが仇になった。馬子は自分の保身と共に、群臣に人気のある厩戸皇子の評判を貶め、大王候補から抹消しようとしたのである。
多くの群臣は、馬子がこの噂を操っているのだと気づいていたが、表立って厩戸皇子を擁護しようとするものはいなかった。馬子が厩戸皇子を疎んじているのなら、今一番の勢力を誇っている馬子を敵に回して、皇子の味方をするのは賢明でないと判断したのだ。
以前は神童だ天才だと持て囃していた人々も、厩戸皇子に対し次第によそよそしくなっていった。
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