第12話
厩戸皇子が太子となっても、世の中は何も変わらなかった。
額田部皇女は毎朝日の出と共に神祇を行った。これは、他田大王が崩じた時から続いている彼女の任務である。日が昇ると宮で朝参を受け、その後は大臣からの報告を聞く。他に特に決まった仕事はない。日々の政務は馬子の屋敷で行われていたし、政の一切は大臣が仕切っていたので、大王が政について何かする必要はほとんどなかったのだ。
先の泊瀬部大王の世、大王が大臣の意見を聞かず思うままに政治を動かそうとした為、馬子は政の場から大王を排除するようになり、わずか五年足らずの間に大王を飾り物の存在にしてしまった。それは額田部皇女が大王になっても引き続き、まるで何百年も昔からそうであったように人々に錯覚させた。
ところが厩戸皇子は積極的に政に参加しようと会議には可能な限り出席し、馬子には日々の報告をするよう指示した。
額田部皇女の真意がどうであれ、厩戸皇子を形ばかりの太子にしたかった馬子は、若輩の厩戸皇子の言葉になかなか素直に従わなかった。大王の前では従順な大臣を演じ、大王のいない会議の席では穏やかに、時には辛辣に厩戸皇子に反発した。
厩戸皇子が太子となって間もなくのことである。群卿との会議の時、今後の対外政策を見直すべきだという厩戸皇子に対して、馬子は真っ向から噛みついた。
「大王の意向で行ってきた政策に、何かご不満でもおありですかな。私が大臣となって、百済や高句麗とは今までうまくやってきた。一体何を見直すとおっしゃるのでしょう。新しいことをなされるのも結構。しかしながら、それで過去に築いてきたものをぶち壊しにされては困りますな」
厩戸皇子は、今までとは違う馬子の態度に驚いて、馬子を見た。
馬子の機嫌を損ねたか。これまで自分の発言に正面切って反対することなど一度もなかったのに。
馬子は、重々しい渋面を作っている。
厩戸皇子は、自分が出過ぎた発言をしたのかもしれないと思ったが、その時は特に気にしなかった。
しかしそうした馬子の態度はその後も続いた。
厩戸皇子が意見を述べようとすると「政はこの大臣にお任せあれ」と、皇子は口を出すなと言わんばかりで、何かにつけて皇子の経験の浅さを指摘し「皇子はまだお若い」と笑う。間にいる群臣は、首鼠両端を決め込んで二人の顔色を窺うばかり、どちらの味方もしない。
どうやら馬子は自分が太子となり政に口を出すことが気にくわないらしい、と厩戸皇子は思った。
それはある程度予測していた。太子になる時、自分に政を任せて欲しいと額田部皇女に頼んだのは、あまりにも権力を持ちすぎた馬子に対する牽制であった。先の大王は愚かではあったが、同じ危機感を抱いていたことは共感できる。
それにしても、太子になる前にはあれほど自分を頼っていつでも意見を求めてきた馬子が、立場が変わるとこうも態度が変わるものなのか、と厩戸皇子は半ば呆れた。
馬子は敷島大王の晩年に大臣に就任して以来、他田大王、橘豊日大王、泊瀬部大王の時代を通して大臣の座にあり、海千山千いくつもの修羅場をくぐり抜けてきた人物である。いくら厩戸皇子が聡明でも、古狸のような馬子は一筋縄ではゆかぬ。
厩戸皇子が太子となって半年、額田部皇女との初夜から四度目の夜のこと、この状態を額田部皇女は承知しているのだろうかと厩戸皇子は、思いきって訊いてみた。
「大臣は、私が太子となったことに不満を持っているのではなかろうか」
額田部皇女は、気怠い声を出した。
「床の中で政の話はおやめなさいませ。無粋だこと」
「わかっています。ただ、ふと思い出して」
「大臣が不満を持ったところで構わぬではないか、貴方はやがて大王となる身。細かいことは気になさらぬよう。さ、それより」
額田部皇女は、厩戸皇子の手を自分の胸元へ導いた。
額田部皇女は、厩戸皇子に馬子のことなど気にするなと答えたものの、二、三日すると、やはり気になって馬子を宮へ呼び出した。
「群臣の中に、厩戸を太子としたことに納得していない者があると聞く。大臣は、どうじゃ、私が厩戸を太子としたことに不満をお持ちか」
馬子は平然と答えた。
「とんでもございませぬ。大王のお考えは私の考えるところと同じ。この大臣も、厩戸皇子が太子となられて心強く思っております。ただ」
「ただ」
「太子は博学多識とはいえ、まだまだ政の経験が不足しておられます。ご夫君であられる他田大王を始め長年大王にお仕えしておりますこの大臣めが、太子が大王となられるまでに及ばずながらお教えしていこうと思っている次第。多少厳しいことも申しますが、それもみな、厩戸皇子が立派な大王となられるよう、皇子の為を思ってのことでございます。おわかりいただけますよう」
「うむ。大臣の心遣い、ありがたく存じます」
額田部皇女は、馬子のそらぞらしい言葉をそのまま受け取ることにした。馬子に内緒で厩戸皇子と密約を交わしておきながら、一方では馬子との間に不必要な波風を立てたくなかったのである。
翌日、厩戸皇子を呼びだした額田部皇女は、馬子の言葉をそのまま伝えた。
「大臣は貴方のためを思っておられる。貴方も大臣の期待に添えるよう、精進なさい」
厩戸皇子は額田部皇女の言葉を聞いて落胆した。額田部皇女が一番大切なのは自身であり、馬子を敵に回してまで厩戸皇子を庇う気はないのだ。そう感じた厩戸皇子は、馬子とのことで二度と額田部皇女を頼るまいと思った。
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