第10話

 それから程なくした四月、額田部皇女は太子を任命する、と群臣を招集した。

 居並んだ群臣の前に、額田部皇女は一段高い座に厩戸皇子と並んで座っていた。

 なぜ、厩戸皇子が大王の横に座っているのか、馬子は不審に思った。

 額田部皇女が威厳を込めた低い声で言った。

「私は、今日、ここにいる厩戸皇子を太子として任命します」

 群臣から静かなどよめきが起こった。

 馬子は、氷風に吹かれたように全身が硬直した。

 群臣は馬子の言葉を待ったが、馬子は凍り付いたまま真っ白な顔をして動かない。

 横に座る境部臣摩理勢に肘で脇腹をつつかれ、馬子はようやく我に返り、頭を下げた。

「厩戸皇子の太子ご着任、おめでとうございます。我々群臣一同、以前に況して協力し合い、大王の為に尽力しようと存じます」

「うむ。太子には積極的に政に参加してもらうので、皆もよろしく頼みます」

 額田部皇女は、厩戸皇子の横で満足そうに微笑んだ。

 昨日、額田部皇女は「明日、太子を立てる」とだけ言ってよこした。馬子は、当然、太子には実子の尾張皇子を立てるものだと思っていた。厩戸皇子を太子にするなど、事前に何の相談も受けていなかった。寝耳に水の話である。

 息子の即位の障壁となる厩戸皇子を太子に任命するとはいったいどういう訳なのか、馬子には、額田部皇女の意図が全くわからなかった。

 馬子がなぜ額田部皇女を大王にしたのか、それは厩戸皇子を大王にさせない為であった。それなのに、額田部皇女は厩戸皇子を太子にしてしまい、馬子の意向を全く汲み取っていない。太子として額田部皇女と共に政治経験を積んだ厩戸皇子が大王となったら、どんなに強力な王になることか。蘇我氏がいかに太刀打ちできようか。今まで自分の父が、或いは自分が、大王と外戚関係を築き一族の勢力を広げ、漸く政治を思うがままにできるようになったのに、あのような若造に行く手を阻まれるのか。

 馬子は地団駄を踏んだが、既に遅かった。

 誇らしげに太子を紹介する女帝の横で、高い所から群臣を見下ろす厩戸皇子のすました顔。以前なら頼もしく思えた厩戸皇子の泰然自若ぶりが、今の馬子には無性に腹立たしく見えた。

 そんな馬子の心中を知らず、額田部皇女は有頂天になっていた。

 念願の、若く美しい厩戸皇子が手に入ったのである。彼女は厩戸皇子の申し出た「太子に政を任せる」という条件の重大さに気づかないほど、恋の熱に浮かされていた。


 その午後、馬子はひとりで女帝を訪ねた。額田部皇女の真意を確かめる為である。

「てっきり尾張皇子を太子となさるとばかり思っておりました」

 馬子は自分の不満を表に出さぬよう、微笑みを浮かべながら穏やかな口調で言った。

 額田部皇女も普段通りの何でもない風の顔で答えた。

「私も迷ったのです。我が子はかわいいし、太子にしたい。でも厩戸皇子を目の前にして、あの聡明さを見ると、やはり厩戸皇子こそが大王になるのが正しいと」

「尾張皇子も聡明でございます。それに」

「世辞は結構。尾張だけでなく他の皇子たちも、厩戸皇子に敵う者はいないのは誰の目にも明らか。その厩戸皇子を差し置いて尾張を太子としても、必ずやいつか厩戸皇子が障害となりましょう。尾張と厩戸皇子を巡って世が混乱しないとも限りませぬ。私は私情を捨て、この国の大王として国が安定するよう最もふさわしい皇子を太子にしたのです」

 額田部皇女は用意されていた台本を読むように、滔々と述べた。

 馬子としては、これ以上反論のできない答えであった。その時は厩戸皇子を殺めればいい、と言おうとしたが、その空気ではないと感じ、言葉を飲み込んだ。

「確かに厩戸皇子は聡明であられる。しかし、皇子には正妃がおられませぬ。その点はどうお考えで」

「いずれは妃を娶らせます。大丈夫。私はまだまだ長生きするつもりだし、即位まで充分時間はありましょう。厩戸皇子には刀自古郎女が産んだ山背皇子という後嗣もいるのだから、心配あるまい」

 山背皇子のことを出されては、反論のしようがなかった。

 馬子は最後にぼやきともつかぬ言葉を吐いた。

「それにしても、なぜ太子を政に積極的に参加させるなど。この大臣ではお役に立ちませんかな」

「大臣は充分すぎるほど働いてくれています。その負担を少しでも軽くできるよう、厩戸皇子には尽力してもらおうと思う。過去の大王においても、太子を政治に参加させていました。厩戸皇子にも今のうちから政治のことを勉強させねば、泊瀬部のように、何もできない大王になっては大臣も困りましょう。厩戸皇子と力を合わせて国を良くしていって欲しい」

 馬子は女帝の本意を掴めないまま、額田部皇女の宮を後にした。


 馬子は、額田部皇女の言葉の影に厩戸皇子の存在を感じた。聡い厩戸皇子のこと、嘗て馬子がしたように、額田部皇女と何らかの約束をしたのではないかと推測した。

 今までずっと、馬子と額田部皇女は持ちつ持たれつでやってきた。額田部皇女は、ほとんどの事柄に於いて馬子の願い入れを聞き入れていた。馬子の願い入れを、額田部皇女から詔として発表したこともある。馬子も、額田部皇女の地位を利用する代わりに、彼女の子供らの後援を約束した。今までそれでうまくやってきた関係に、厩戸皇子が一石を投じたのだ。

 額田部皇女は、馬子が尾張皇子のことを言い出すのは想定していた。もちろん尾張皇子をかわいく思っているし、彼を大王にしたい気持ちは当然ある。ただどうしても、長子であった竹田皇子を思うような気持ちにはならないのだ。

 竹田皇子を溺愛し、母としての情熱を全て竹田皇子に注いできた額田部皇女。竹田皇子の死で何かが崩れてしまったのだ。

 そうはいっても百戦錬磨の女帝、尾張皇子と厩戸皇子を天秤に掛けられるくらいの冷静さは持っている。ここで尾張皇子を太子に指名するのは容易い。しかし今、額田部皇女の心を惹きつける厩戸皇子が手に入るまたとない機会なのである。自分が厩戸皇子の子を産めば、その子がいずれ大王になろう。厩戸皇子を太子にすれば、自分は厩戸皇子を手に入れられる上に厩戸皇子との子を大王にすることができるのである。尾張皇子を太子にしても、実の息子が次期大王になることに変わりはない。それならば、厩戸皇子の妻になれるという大きな余得がついているほうを選ぶのは当然ではないか。

 額田部皇女は幸福の絶頂にいた。

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