第9話

 西の空が茜色に染まりだした頃、厩戸皇子は額田部皇女の待つ豊浦宮へ向かった。豊浦宮は厩戸皇子の住む上宮からそう離れていない。馬子にはできるだけ秘密にしておきたかった皇子は、口の堅い信頼できる舎人をひとりだけ連れて行った。重い心の皇子は、馬をゆっくり歩かせた。

 道すがら、厩戸皇子は暮れかかる飛鳥の里を眺めた。

 暮れかかる空に天香具山が影となって浮かび上がる。前方には蘇我氏の氏寺である飛鳥寺が建設中である。完成すれば、さぞかし立派なものとなるだろう。そのまま北へ行くと馬子の住む嶋の屋敷がある。厩戸皇子は、飛鳥寺の手前を右へ曲がり、西へ馬を進めた。飛鳥川沿いの道を行けば、やがて豊浦宮だ。


 その夜の額田部皇女は上機嫌だった。

 三十路の自身を、念入りにした化粧、上等の鮮やかな絹の衣ととっておきの宝石で飾り立てていた。

 厩戸皇子は、通常通りに額田部皇女の一段下から挨拶をしたのだが、挨拶を終えると額田部皇女が言い出した。

「今宵は私とそなたしかおらぬ。そのような遠くにいないで、こちらへ来られなさい」

 厩戸皇子に答える間も与えず、額田部皇女は釆女に申しつけ、自分の隣に皇子の座を作らせた。

 皇子の顔が緊張で引きつった。身を固くしている皇子の傍らで、事情を知ってか知らずか釆女たちは淡々と仕事をこなしている。

「さあ、こちらへ」

 額田部皇女の隣に拵えられた席を見て、厩戸皇子はまるで婚姻のようだと思った。

「いや、これは婚姻だったな」

「何か言いまして?」

「いえ、何も」

 座に着いた皇子の前に、酒、珍しい食べ物が次々と出される。

 この時代は通い婚が通常である。一般的には女性が妊娠した時点で宴を開くこともあり、婚姻の成立についてあまり厳密ではなかった。一方、皇族や豪族は政略結婚が多い為、初夜の前後に婚礼の宴を開き発表することが多かった。

 額田部皇女と厩戸皇子の婚姻は政略的なものであったが、現時点で公表するのは賢明ではないとして時期を見ることにした。

 厩戸皇子が額田部皇女の宮へ泊まることになっても、釆女は誰も驚かなかった。

 厩戸皇子が寝屋へ入ると、床の回りには薄絹が張られ、灯りはその外にあった。

 薄絹越しの光はぼんやりと額田部皇女の身体を包み、神秘的な雰囲気を作っていた。こういった技は額田部皇女の得意とするところである。いかに自分を神秘的に見せるか、他の女性と違ってみせるか、皇后の時代から計算していた。

 そのお陰で、厩戸皇子は彼女の顔や表情を克明に見ずに済んだのはありがたかった。

 母よりも年上の、子供の頃から叔母として大王の后として接してきた額田部皇女を、今さら妻として抱くのは困難だった。さらに裏にある密約が頭から離れず、厩戸皇子の情欲は心細かった。その肌に触れるほど、その声を聞くほど萎えていく気持ちを、無理矢理奮い立たせるには相当の努力が必要だった。皇子にとって、彼女との行為は罪悪感を抱かせるものでしかなかったのである。

 そんな皇子の淡泊な愛撫を、額田部皇女は若さ故の経験不足だとしか思っていなかった。

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