第8話

 額田部皇女の遣いを帰した後、厩戸皇子は思い悩んでいた。彼女の狙いがいったい何なのか掴めずにいた。

 最初は、自分を困らせてみたいだけの、皇女特有のいたずら心かと思った。しかし、こうして頻繁に遣いをよこすところを見ると、本気で自分と婚姻する気なのか。ならば大王となった額田部皇女に対して、いつまでも仮病を使って返事を先延ばしにはできない。

 厩戸皇子はため息をついた。

 自分はつくづく女運が悪いのか。一人目の妻は早くに死に、二人目の妻も昨年死んだ。今は母親よりも年上の女に政略結婚を迫られている。

 かねてより厩戸皇子は政略結婚というものに対し違和感を覚えていた。だが、それ以上に額田部皇女の提案を不快に思ったのは、彼女が実の叔母であること、二十も年上であること、そしてもうひとつ、見返りに大王の座を約束されたことである。

 大王になりたいが為だけに彼女と婚姻することは、果たして人として正しい道なのか。

 厩戸皇子は自問自答した。

 しかし、額田部皇女の誘いを断れば、この先自分は大王になれず、理想国家を創るという夢は果たせないまま一生を終える。額田部皇女には、自分は大王にならなくともよいと答えたが、本音は違う。まだまだ発展途上のこの国をまとめ、人々に道徳心を持たせ、安定した国家を土台から作り上げることが厩戸皇子の夢なのだ。その為には大王にならなくてはならぬ。


 厩戸皇子は思い立って、膳菩岐々美郎女を訪ねた。

 菩岐々美郎女は、膳臣が普段居住している飛鳥の屋敷でなく、膳氏の本拠地にある斑鳩の屋敷に住んでいた。

 斑鳩は、皇子の住む上宮から田畑の中を馬で北西に行くこと半刻ほどの地にあった。西には山並みが連なり、竜田川沿いにのどかな田園が広がる。皇子にとって心休まる場所だった。田畑が新緑に輝く季節にはそれは美しい景色となるが、今は農閑期、それでも、このひなびた風景もまた皇子の心を落ち着かせる。

 飛鳥のどろどろとした欲望渦巻く人間関係に身を置く皇子には、斑鳩は楽園のように思えた。そんな中で育った菩岐々美郎女の心も、この斑鳩の風景のように純真で、素直に皇子を迎え入れてくれるものだった。

 菩岐々美郎女の部屋で、厩戸皇子は彼女の膝に頭を乗せたまま訊いた。

「身分の高い人間が妻を何人も持つことを、愛してもいない女性と婚姻することをどう思う」

 菩岐々美郎女はあどけなさが残る少女のような顔で言った。

「皇子は、尊い血を絶やさぬようにしていく必要があると存じております。また、世の平衡を保つ為にも、複数のお妃様をお持ちになる、それはこの国にとって大切なことだと思います」

 菩岐々美郎女の言葉は、厩戸皇子の心を反映していた。

 厩戸皇子と知り合うまで満足な教育を受けていなかった彼女は、厩戸皇子の思想や哲学を聞いているうち、彼の考えに感化されていった。今まで厩戸皇子は、難しい仏教の話や政治の話、自分の理念など様々なことを話してきた。彼女にとって、それは到底理解できない話であった。それでも彼女は、厩戸皇子の一言一句を聞き漏らさぬよう、真剣に話を聞いた。わからないことは素直にわからないと言い質問する。彼女はいつも一生懸命であった。厩戸皇子はそんな彼女に噛み砕いて説明するのが好きだった。

 郎女はさらに言った。

「この先、皇子がどなたかを妻とされようと考えた時、私のことなど決してお気になされませぬよう。私は充分すぎるほど皇子によくしていただき幸せでございます。私が皇子の将来の障害になるのは一番心苦しゅうございます。お気に掛けずに、貴方の信じる道をお進みなさいませ」

 菩岐々美郎女は少女の顔に大人びた表情を浮かべ、厩戸皇子に微笑みかけた。

 彼女の微笑みは萩の花に似ている。花のように心慰めるこの愛おしい妻を悲しませたくない。

 厩戸皇子は再び溜め息をついた。

 額田部皇女の誘いを断ることは、則ち、自分の政治生命が断たれることなのだ。

 自分の志と私心の間で、皇子の心は揺れ動いていた。

 菩岐々美郎女と家庭を作り、誰にもじゃまをされずに穏やかに暮らしたい。

 一方でそれが叶わぬことだとも承知していた。皇子として生まれた以上、人民の為にこの国を整え繁栄させていくことが、自分に与えられた使命なのだ。この大志の前では厩戸皇子個人の幸福など、ちっぽけなものなのだ。

 厩戸皇子は決心した。

 自分の取るべき道はひとつしかない。

 梅の花が散り始め、額田部皇女の我慢が限界に達する頃、厩戸皇子は密かに女帝に遣いを送った。

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