第7話
厩戸皇子の元から戻った遣いの言葉を聞いて、額田部皇女は持っていた火箸を火鉢の灰に突き刺した。
「病気だと。そんな見え透いた嘘をつきおって、私に通用すると思っておるのか」
この提案は、厩戸皇子にとっても悪い話ではない。考える余地などないはずである。男ならば誰もが欲しがる自分という女を、拒む理由はひとつもない。それとも厩戸皇子は自分を焦らしているつもりなのか。
額田部皇女は、夫の他田大王亡き後も再婚を考えず、他の男との交わりを一切拒み生きてきた。それは額田部皇女が貞淑な妻だったからでも、夫を愛していたからでもない。歳の離れた夫とは政略結婚であったし、夫の死後もその愛情が続くほどには愛していなかった。また貞淑な妻ともほど遠かった。
額田部皇女は自分の持つ肉感的な魅力を知っていた。夫が健在であった頃から、わざと胸元が開いた衣装を身につけたり、身体の線を見せつけるような姿勢を取り、舎人や豪族たちの熱い視線を集めて悦に入っていた。
といって誰彼構わず床を共にする女でもなかった。夫がいる時分なら、たとえ誰かの子供を孕んでも夫の子として産めばいい。だが夫が崩御し大后となった今は事情が違う。馬子が自分を重く見るのも、群臣が崇めるのも、大后としての地位があるからだ。格下の男と交わり、万が一、子でも成そうものなら、一瞬にして大后の権威は地に堕ちる。額田部皇女はそのことを充分承知していたからこそ、貞節を守らねばならなかったのである。自分を抱けるのは大王となる男だけである。そう思って生きてきた。
夫である大王が崩御し殯宮で喪に服している時、大王位を狙っていると評判の穴穂部皇子が宮を訪れた。大后として大きな発言力を持つ額田部皇女。大臣に対等に意見を言える彼女を、穴穂部皇子は是非、妃にと欲しがったのだ。
額田部皇女は、以前から穴穂部皇子が自分に対して好意を抱いているのは感じていた。夫の存命中にも、穴穂部皇子があからさまに視線を送っていたのを、額田部皇女は気づかぬふりをしていた。
その時、額田部皇女は三十三歳、まだまだ女盛りである。皇子が実に欲しているのは大王の座でなく、自分が欲しいが為に大王になりたいのではないかと、額田部皇女は思った。穴穂部皇子は額田部皇女と同年代。十六も歳上だった夫と比べると、清々しく若い。しかも穴穂部皇子は、竹田皇子を皇太子にすると約束した。悪くない条件である。額田部皇女は自分が軽く見られないよう、焦らしに焦らした後、穴穂部皇子との夜を約束した。
それなのに約束のその夜、亡き他田大王の
その後、蘇我氏と物部氏が険悪になった中、即位して間もない橘豊日大王が崩御した。すると穴穂部皇子は物部大連守屋に次期大王候補として担ぎ出された。対して大臣馬子は、大后の宮を襲った上に三輪君を殺害した穴穂部皇子に謀反の罪を追求し、額田部皇女に処罰を要求した。
額田部皇女は蘇我馬子の姪である。馬子の敵である物部氏が擁立する穴穂部皇子の味方をするわけにはいかなかった。それでなくとも蘇我氏有利と言われているこの戦い、万が一、物部氏が勝って穴穂部皇子が大王になれたとしても、物部大連守屋は馬子の姪である額田部皇女の立皇后を承知しないだろう。どちらにしても皇后になれないのなら、穴穂部皇子が額田部皇女との密約のことを人に洩らす前に死んでもらったほうがいいと考えた。
そうして穴穂部皇子は謀反人として死に、額田部皇女は再婚する機会を失った。
もう二度と男と肌を合わせることはないだろう。そう心した額田部皇女は、長男の竹田皇子を自分の宮のすぐ近くに呼び寄せ、有り余る愛情を竹田皇子に注いだ。竹田皇子さえいれば他に男などいらぬ。皇子の成長だけが額田部皇女の生き甲斐であった。
だが昨年、その竹田皇子も早逝した。
情熱の行き場を無くした額田部皇女の目の前に、今、美しい青年となった厩戸皇子が現れたのだ。
穴穂部間人皇女の再婚も額田部皇女を刺激した。
亡き橘豊日大王の皇后であり厩戸皇子の母である穴穂部間人皇女。額田部皇女の異母妹で、歳もそう変わらない。大后という地位を捨て若い皇子と再婚した穴穂部間人皇女を、額田部皇女は軽蔑する一方で羨ましくも感じた。
穴穂部間人皇女は自分と同じような立場なのに、若い男と再婚した。しかも義理の息子とである。ならば、自分が甥である厩戸皇子の妻になってもおかしくはないはずだ。
皇女という身分に生まれ、一度も自由に恋をすることのなかった額田部皇女。寡婦としてこのまま老いていくのは口惜しい。今ひとたび華やかな場に身を置きたい。厩戸皇子を手に入れれば額田部皇女の望みは全て叶うのである。
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