第6話

 厩戸皇子が額田部皇女の要求に返答をしないまま、年は明けた。

 額田部皇女を即位させ馬子は満足していた。群臣に人気のある厩戸皇子が大王になるのを何とか阻止できた。自分の姪である額田部皇女ならば操りやすい。やがて額田部皇女の息子、尾張皇子が大王になるだろうが、彼は厩戸皇子より遙かに容易い。しかし、後になって馬子はこれが誤算であったことを知るのだが。

「太子を立てられたほうがよろしいかと存じます」

 馬子の言葉に、額田部皇女は、うむ、とだけ言って頷いた。

 明確な返答を避ける額田部皇女を、馬子は訝しげに見つめた。

「亡き橘豊日大王は、ご在位中に太子を立てられませんでした。その結果、あのような争いが起こったのでございましょう。尾張皇子のためにも、早々に皆に発表なされたほうがよろしいかと」

「わかっています。時期を見て、大嘗祭までには発表します」

 馬子はそれ以上何も言わなかった。女帝が自分の息子を太子に立てると、何の疑いも持っていなかった。


 大王となった額田部皇女は、なかなか返答をよこさない厩戸皇子に対して苛立ちを感じ始めていた。

 厩戸皇子は、大王への新年の挨拶、元旦の朝賀にこそ顔を出しはしたが、妻の喪中を理由に祝賀行事には現れなかった。

 祝賀行事のひとつ、皇子皇族と群卿が弓を射て新年を祝う射礼も、宮の舎人や豪族の家臣たちが弓の技を競い合う賭弓も、厩戸皇子は参加しなかった。優秀な舎人には褒美も出る賭弓は、各宮、各氏の名誉をかけて皆が盛り上がる正月行事だ。

 額田部皇女は、舎人や豪族の家臣たちが競い矢を射るのを、心ここにあらずといった顔で見ていた。

 女帝の横に座る尾張皇子がその様子に気づいた。

「母上、具合でも悪いのですか」

 本来の額田部皇女は、このような行事や宴会の類が嫌いではない。他の皇女の誰よりも華やかな衣装に身を包み一段高い所に座る。自分の権威と美しさを見せつけ、皆に注目される機会を、毎年楽しみにしていた。

 しかし今年は違っていた。

 額田部皇女は、知らず知らずのうちに厩戸皇子の姿を目で捜していた。皇子がいないとわかると、酔いが醒めるようにいっきに気持ちが沈んでいくのだ。今こうしている間、厩戸皇子が何処で何をしているのか気になって仕方がなかった。皇子のいない宴会など、額田部皇女には色褪せて見えた。

「厩戸皇子がいないと、何だか花がひとつ足りない気がする。喪中なのはわかっているが、これくらいの行事はよいであろう。大臣だって出席しているのに」

 額田部皇女は一段下の席の馬子に声を掛けた。馬子は既に、酒をたらふく飲んで上機嫌の様子である。

「私と厩戸皇子とは立場が違いますからな。まあ、皇子のご心情もお察しあれ。本当に情が厚い御仁。我が娘もこのように思われて果報者でした」

「刀自古郎女のことは残念でした」

「お心遣い感謝いたします。我が娘は立派な皇子たちを残してくれました。それが何よりです。おお、大王、ご覧あれ、見事な腕前」

 馬子はそう言って、試射場に視線を向けた。刀自古郎女の話をそれ以上続けたくなかった。

 額田部皇女は、再びうつろな目で試射場を見た。


 その夕方、額田部皇女は自宮に戻ると年配の釆女頭に詰問するように問うた。

「厩戸皇子はいつまで喪に服するのか」

 釆女頭は、額田部皇女の荒い口調にも臆せず、冷静に答えた。

「九十日後、おそらくは二月の中頃には明けましょう」

「まだひと月もあるではないか」

「ご辛抱なされませ。時が来れば、何もかも大王の思うがままになりまする」

 釆女頭の言葉に、額田部皇女は我を取り戻した。

「そう、そうであったわ。ひと月我慢すれば、あれが手に入るのでした」

「その通りでございます」

 ところがそのひと月が過ぎても、厩戸皇子からは何の沙汰もなかった。

 大王という身分、また、事情が事情だけに大っぴらに厩戸皇子に返答を迫れない。そういったことも額田部皇女の苛立ちに拍車を掛けていた。馬子からは早々の立太子をせっつかれるが、厩戸皇子の宮に馬子の密偵がいるのも知っている、厩戸皇子に遣いをやるのにも、理由を考えなくてはならなかったのである。


「大王の遣いが来られました」

 厩戸皇子が上宮の自室で書物を読んでいると、釆女頭の声がした。彼女は皇子が幼い頃からずっと宮に仕えている女官である。通常の客は他の女官が取り次ぎをするが、大王の遣いだけは彼女が取り次ぐ。その規則は厩戸皇子が決めたのではない。彼女自身が決めたのだ。

 大王に仕える女官たちは気位が高く、身分意識が強かった。彼女らに言わせると、大王に仕える自分たちは皇族に準ずる存在で、大臣や他の群臣は大王の臣下であり、したがって、直接大王と接する女官たちのほうが身分が上なのだ。その言葉通り、厩戸皇子の釆女頭は、馬子の訪問には敬意を払わない。

「遣いはまだいるのか」

「はい、皇子から直接お返事を賜りたいと申しております」

 何の用か聞かなくともわかっている。会う必要がないと思いながらも追い返すわけにもいかない。

 身支度を整え、遣いが待っている部屋に行くと、やはり古くから額田部皇女に仕えている年増の釆女がいた。そのことからも直ぐに何の話かわかる。

「今宵、大王が豊浦の宮で梅見の宴を開きます。厩戸皇子には是非来られますよう」

 釆女は、かしこまりしながらも、威厳を保ちながら言った。

 厩戸皇子は咄嗟に断りの理由を考えねばならなかった。

「お誘いありがとうございます。ですが、何だか気分がすぐれず、今日は一日、宮から出ずに休んでいようと思っていたところです。寒さ厳しき折、大王もお風邪を召しませぬようお気をつけ下さいとお伝えください」

 そうして大王の遣いは手ぶらで帰された。

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