第4話

 その三日後のことである。

 厩戸皇子が上宮の自室で書物を読んでいると、日が傾き始めた頃、釆女が馬子の来訪を告げた。

 厩戸皇子は、父王から引き継いだ双槻宮なみつきのみやの北側に位置する上宮に、母や他の家族とは離れて住んでいた。上宮は、父がまだ皇子であった頃、厩戸皇子の誕生を祝って皇子の為に立てた宮である。

 再婚した母は再婚相手の田目皇子から与えられた宮にいるし、すぐ下の弟、来目皇子もまた父王が遺した別宮で、下の弟たちは、父王がいた双槻宮で乳母たちとそれぞれ暮らしている。本来なら厩戸皇子が双槻宮の主なのだが、厩戸皇子は父王が自分の為に建ててくれた上宮から離れられないでいた。

 皇族や身分の高い人間の場合、男子が生まれると、成年するまでは母方の家や大王の領地などで兄弟別々に育てられるのが慣例であった。万が一を考えてのことである。しかし橘豊日皇子は、厩戸皇子が生まれると自分の宮の敷地内に離れを作り、その宮で皇子を養育していた。

 それほどまでに橘豊日皇子が厩戸皇子の誕生を喜んだのには、皇子の誕生が特別な意味を持つからであった。

 橘豊日皇子にとって、厩戸皇子は三人目の息子であった。しかし、蘇我稲目の娘が産んだ長男の田目皇子は橘豊日皇子の種ではないとの噂が流れ、橘豊日皇子自身も田目皇子を息子として認めなかった。二番目の息子、当麻皇子は身分の低い采女から生まれた皇子であり、後嗣としてふさわしくない。橘豊日皇子がいずれ大王となるには、或いは息子を大王とするには、皇女を正妃に立て、彼女が男子を産むことが重要な条件だったのである。

 正妃の穴穂部間人皇女が懐妊したのは他田大王が即位した翌年であった。厩戸皇子の誕生によって、橘豊日皇子は他田大王の太子に任ぜられたのである。

 そんな事情もあって、橘豊日皇子は厩戸皇子の誕生を手放しで喜んだ。他の皇子たちより抜きん出て賢かった厩戸皇子は、父王から溺愛され、幼少の頃から、優れた教師や沢山の書物を与えられた。大人たちの話の場にも、支障がない限り厩戸皇子を同席させていたという。厩戸皇子が父や祖父ほどの年齢の大人たちの中で臆することがないのは、従来の性格もあろうが、そんな育てられ方をしたからであろう。


 厩戸皇子が馬子の待つ部屋へ行くと、顔を真っ赤にして興奮した様子の馬子が座っていた。

 馬子は厩戸皇子の姿を見ると、挨拶もせずにいきなり言った。

「申し訳ございませぬ」

 馬子は、頭を床に着けんばかりに頭を下げた。

「どうなされたというのです」

 馬子は頭を下げたまま言った。

「皇子の妃、我が娘刀自古郎女が、東漢直駒の屋敷で見つかりました」

 厩戸皇子は何のことかわからず、きょとんとしていた。

「実は、先の大王が東漢直駒によって弑逆されたときから、刀自古郎女の姿が見えなくなっておりました。懸命に捜していたのですが、なかなか見つからず心配しておりました。罪人である駒の行方を捜索しているうち、駒の隠れ家を見つけまして、するとそこに刀自古が駒によってさらわれ幽閉されていたのです」

「え」

 予想もしなかった言葉に、厩戸皇子は絶句した。

「家来どもが駒を捕らえようとしたのですが、あまりにも抵抗するので、その場で駒を切り捨てました。その時には既に刀自古は、駒に手を触れられるのを拒んで自害しておりました」

「刀自古郎女が自害」

 愕然として色を失う皇子に、馬子は更に頭を下げた。

「申し訳ございませぬ。私めの家臣の管理が行き届かず、駒にこのような事件を起こさせてしまいました。刀自古郎女の屋敷の管理をもっと厳重にしておればと、後悔しておりまする。皇子にはこの通り、謝っても謝りきれませぬ」

 馬子の平身低頭する姿を見ているうち、厩戸皇子の心は冷静さを取り戻していった。そして、今、自分の言うべき言葉を探した。

「頭を上げてください。私こそ、大臣の大切な娘、刀自古郎女をそのような目に会わせて申し訳ない。大臣も、信じていた家臣に裏切られ、さぞやご心痛であろう」

「ありがたきお言葉、かたじけない」

 顔を上げて皇子を見る馬子の目は、うっすらと涙で滲んでいた。


 馬子が退室した後、厩戸皇子はしばらく呆然としていた。

 刀自古郎女が自害した……。

 政略結婚だったとはいえ、何度か肌を合わせていれば愛着も湧くし、子も四人得ている。悲しくないと言えば嘘になる。ただ、不思議なことに涙は出なかった。

 刀自古郎女の死の瞬間、自分は何かを感じただろうか。

 幼い頃から、鋭敏な感性を持った厩戸皇子は、身近な人の死を予感することができた。

 父が死んだ時もそうだ。あの日の朝方、悲しい夢を見て目が覚め、再び横になったが目が冴えて寝つけなかった。その時、父が息を引き取ったと報せが来たのだ。

 では、刀自古郎女の場合はどうだったのか。彼女が行方知れずになったという数日間、特に胸騒ぎもなく、何ら死の予感を感じなかった。自分では、彼女を愛していたつもりであったが、本心では何も思っていなかったのではないか。彼女は、自分にとって何だったのか。彼女は自分の子を産んだ。しかし、自分の人生には何ら影響を及ぼさない、通りすがりの人間に過ぎなかったのではないだろうか。

 厩戸皇子は、そのように考える自分は冷酷なのではないかと反省し、刀自古郎女のことを思い出そうとした。

 大臣の家に生まれて何ひとつ不自由なく育てられ、父親から溺愛されたせいか、奔放で気位の高い女性。時には愛らしく感じ、時には鬱陶しく感じることもあった。最後に会ったのはいつだったか。泊瀬部大王が殺害される少し前、子を産んだ時であったか。

 思い出しているうちに涙がこみ上げてくるかと思ったが、そうでもなかった。

 厩戸皇子は気を取り直して、膳菩岐々美郎女に文をしたためた。雑務に忙しくしばらくは会いに行けないが、気にしないで欲しい、という内容だ。刀自古郎女に対する自分の冷酷な気持ちへの疾しさから、せめてしばらくの間は菩岐々美郎女と会うのを控えようと思ったのである。


 東漢直駒が発見された話は、あっという間に飛鳥中に広まった。

 東漢直駒は泊瀬部大王に直接手を下した人間、生きていては馬子にとって都合が悪いから殺されたのだ、と囁かれた。

 そもそも泊瀬部大王の殺害は、馬子が大后と相談して計画的に行ったことであるが、馬子は、東漢直駒の反逆として皆に説明していた。詳しい情報が届かない地方の豪族や一般の民らに、大王殺しはあくまでも駒個人の反逆であり、その駒を馬子が処罰したように錯覚させる必要があったのである。

 京にいる群臣は皆、東漢直駒に命令したのは馬子だとわかりきっているが、元々泊瀬部大王をよく思っていなかったし、今の蘇我氏に逆らっても良いことはない、表立って何も言わなかった。

 刀自古郎女にしても、本当に自害したのかどうかも疑わしいところである。厩戸皇子の妻になる前には東漢直駒と親しかったと噂もある。世間体の為に馬子が殺したのかもしれないと思った人間も少なくなかった。

 ただ、厩戸皇子は馬子の言葉をそのまま信じていた。馬子が自分に嘘を言うなど考えもしなかった。


「三人の妻のうち、ふたりが死んだか、ほほほ」

 報せを聞いた額田部皇女は愉快そうに笑った。

 彼女の高い笑い声を聞いても、側近の釆女たちは驚かなかった。若い時からずっと仕え、皇女の性格は知り尽くしている。この程度で眉を顰めるようなら、額田部皇女の釆女は務まらない。

「大臣はなんと、皇子に知らせる前に、娘を埋葬してしまったというではないか」

「はい。上宮様もそのことを責めたそうにございます。それに対して大臣のおっしゃるには、刀自古様は駒に惨い扱いを受けたらしく、体中が痣だらけでお顔も腫れ上がり、そのような姿を皇子に見せるのはあまりにも娘が不憫だと。それには厩戸皇子も何も言えなかったと」

 ふふん、と額田部皇女は鼻で笑った。

「果たして大臣の言うことは真か……。いずれにせよ、もう皇子には選択の余地はない。黙っていても向こうからやってくるわ」

 額田部皇女はそう言うと、再び高らかに笑った。

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