第3話

 屋敷を退出する皆を見送った馬子の背中に、息子の毛人が声を掛けた。

「私はてっきり、父上は田目皇子を推しているのかと思っておりました」

 毛人の言うように、馬子は当初、厩戸皇子の異母兄の田目皇子を大王にしようと考えていた。

 田目皇子の母は、馬子の異母妹、蘇我石寸名である。田目皇子にとって、馬子は伯父になる。馬子は田目皇子を大王にする為、泊瀬部大王の在位中に手を打っていた。有力な妃を持っていない田目皇子に、前天皇の皇后、穴穂部間人あなほべのはしひと皇女、つまり厩戸皇子の母親との再婚を勧めたのだ。馬子の甥であり、他に頼る人間のいない彼ならば、自分の思いのままに動かせる目論見だった。

「そのつもりだったさ。ところが大后が、田目皇子はない、ときっぱり言い切ったのだ。大后の反対を押し切って田目皇子を大王にするのは利口なやり方ではないだろう」


 田目皇子は橘豊日大王の長子ではあるが、厩戸皇子に比べ母親の血筋が劣る。しかも、橘豊日大王は嫡子として認めていなかった。血統を重んじる額田部皇女が反対するのはわかっていたが、馬子は、説得次第で何とかなると思っていた。

 しかし、額田部皇女は馬子に説得の余地すら与えなかった。

 大后となった額田部皇女は、今、最も神に近い存在は自分だと自負している。亡き夫、他田大王の殯を五年以上かけて行ったことも、彼女の神性を高めた。他田大王の死後、大王の最も重要な任務を、本来なら泊瀬部大王が行うべき神祇を大后が行うようになり、群臣もそれを認めた。彼女は神と大王との間にいる存在として今も君臨しているのである。

 他田大王が崩じて七年経った今も尚、群臣に多大な影響力を持つ額田部皇女を、馬子は敵に回したくはなかった。


「父上でも説得できませんでしたか」

「それどころか、田目皇子にするくらいなら彦人皇子にしたほうがまし、とさえ言ったのだ」

「まさか。彦人皇子は」

「彦人皇子の正妃は竹田皇子のすぐ下の妹君、小墾田おはりだ皇女だからそれでも構わぬ、と言うのだ。まあ、本気かどうかわからぬがな。とにかく、田目皇子だけは絶対嫌だと言うことだ」

 馬子にはわからなかったが、額田部皇女が田目皇子を嫌うのは、単に血統の問題だけではなかった。厩戸皇子の母、穴穂部間人皇女が田目皇子と再婚したことが大きな問題だったのだ。

 大王である夫を亡くした穴穂部間人皇女が、大后の地位を捨て歳下の田目皇子と再婚した時、額田部皇女は内心安堵した。自分以外に大后と呼ばれる女性がいることがずっと不愉快だったのである。それなのに、田目皇子が大王になってしまったら、穴穂部間人皇女は再び皇后という地位を得る。

「しかし父上。厩戸皇子は納得するでしょうか」

 毛人が、不安そうな表情を浮かべた。

「納得も何も、この大臣と大后が決めたことに逆らえるわけがあるまい。反対したら、わしらを敵に回すことになるのは重々承知しているはずだ。皇子だって先の大王のようになりたくはないだろう」

「他の群臣も、厩戸皇子がなると思っている者が少なくないと聞きます」

「ふん。よいか、毛人。我ら蘇我が、大后を大王にと言っているのに、いったい誰が他の大王を立てたいと言い出すんだ」

「でも皆が」

「ならば今、一番強力な軍事力を持っているのは誰だ。ん?」

「それは、おそらくは私たち、蘇我家です」

「だったら問題は何もあるまい。皆、物部氏のようにはなりたくないだろう。いくら厩戸皇子の人気があっても、自分の一族の命運を賭けてまで擁立しようなんて誰も考えまい」

 自信満々の馬子に対して、毛人の顔は沈んでいた。

「どうした、毛人、納得いかんか」

「……前々からお聞きしたいことがあったのですが」

 意を決したように、毛人は言った。

「父上は、大王に成り代わって国を治めようと考えたことはないのですか」

 途端に馬子の目つきが変わった。毛人の真意を探るような、政治家の顔に変わった。

 群臣の中に、馬子が本当は大王になりたいのではないかと疑っている者がいるのは確かである。

「おまえはどう思っているのだ」

「私は……。父上はいつも私に、蘇我氏の祖先は百済の王族だと自慢しておられます。この国でも王となってもおかしくない血筋だと思います」

「毛人、おまえはまだまだだ」

 馬子は大きく鼻を膨らますと、真剣な顔つきで話し始めた。

「よいか、毛人。大陸では国が興っては滅び、また新たな国が興っては滅んでの繰り返しだ。なぜだと思う」

 毛人が答えを考える前に馬子が言った。

「それは家臣が反乱を起こすからだ。ほとんどの王が、力を持った家臣に殺されている。つまり、今わしが大王となっても、今の我らのように力を持つ者がいずれ現れ、わしを殺して王になろうと思うだろう。世の中はそういうものだ。しかし、自分がその立場ならば、自分が大王を脅かす力を持つ人間だったならば、どうだ。わしが反乱を起こしさえしなければ、大王は安全なのだ。つまり、蘇我氏の大臣としての地位も安泰ということなのだ」

 馬子は毛人の目を見た。

「この国の政策を動かしているのは実質的には大臣だ。大王という名前と名誉にこだわらなければ、大臣ほど魅力的な地位はないのだ。わかるか、毛人」

 凡愚な人々は、馬子のそのような考えに気づかない。

「では父上は、大王という名よりも大臣という実を選んだのですね」

「その通りだ」

 馬子は満足そうに頷いた。

「毛人、おまえはもっと物事の裏側までよく見て、またその裏まで考えねばならん。いつまでもこの父がいると思うな」

「そんな。父上には長生きしてもらいとうございます」

 毛人は、頼りなさそうな顔をした。

 生まれながらに大臣の嫡男として周りに傅かれてきたせいか、毛人はどこかおっとりしている。人間の悪意や政治の裏側を見る力が足りないのだ。行く行くは蘇我総本家を継ぎ大臣となる毛人に、これからもっと教育の必要があると馬子は感じた。

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