第2話
宮へ帰る厩戸皇子の足取りは重かった。
額田部皇女の言う条件は、決して途轍もないことではなかった。
この当時、近親婚の定義は緩かった。母が同じ男女の婚姻は禁止されていたが、それ以外の血族、母が違う兄妹の婚姻は一般的に行われていた。厩戸皇子の両親も異母兄妹であったし、母穴穂部間人皇女は義理の息子と再婚している。つまり、厩戸皇子が叔母である額田部皇女と結婚するのは、道義上なんら問題がなかったのである。
厩戸皇子は既に三人の妻を娶っていた。一夫多妻制であり、身分が高い男性ほど数多くの妻を持っていた。
第一の妻、正妃には他田大王の皇女、彦人皇子の同母妹である
厩戸皇子を大変かわいがっていた橘豊日大王は、病の床についた時、皇子の行く末だけが気がかりだった。賢いとはいえ皇子はまだ幼い。この時代を生きていく為には後ろ盾が必要である。橘豊日大王は、自分が死んだ後は彦人皇子が王位に就くと、何の疑いもなく思っていた。彦人皇子の同母妹である菟道磯津貝皇女を厩戸皇子の妃に迎えられれば、大王となる彦人皇子を味方につけられるだけでなく、今後の王位継承で厩戸皇子が有利になる。橘豊日大王のそんな配慮だったが、その後状況は変わり、彦人皇子は大王になれなかった。
蘇我氏と物部氏との合戦の後、時を置かずして、厩戸皇子は成人の儀を行い菟道磯津貝皇女と婚姻した。橘豊日大王の喪が明けていなかったが、蘇我氏から疎まれ味方のいなくなった彦人皇子が、厩戸皇子と縁続きになっておこうと急いだのである。
しかし、菟道磯津貝皇女は結婚して二年も経たないうちに、子を成さぬまま没した。
第二の妻に、大臣蘇我馬子の娘、
今、刀自古郎女は病気療養中である。馬子は、夫である皇子に病状も教えてくれなければ見舞いもさせない。自分に何か隠していることがある、もしかすると刀自古郎女の病は相当思いのではないか、と厩戸皇子は考えている。
第三の妻、
額田部皇女を含め、周囲の人間は皆その事情を知っている。
「そなた、斑鳩の娘に執心のようだが、まさか彼女を后にできるなど、思ってはおるまい」
額田部皇女の意地悪な声が、厩戸皇子の頭の中に響く。
后は大王と共に政治を司る存在であった。大王が亡き後も政治に影響力を持ち、或いは、今の額田部皇女のように大王に代わって詔を出す場合もある。したがって大王の后は皇族でなければならない。臣下より身分が高い女性でなければならないのだ。
額田部皇女が言わずとも、いくら厩戸皇子が望んでも身分の低い膳菩岐々美郎女を正妃にできないのは確かだった。厩戸皇子が民の人気を得ていても、そのしきたりを無視はできない。皇女を正妃として迎えない限り、厩戸皇子は大王になれないのだ。額田部皇女は厩戸皇子の唯一の、そして最大の弱点をついたのである。
額田部皇女と厩戸皇子の密会があってから二日後、大臣蘇我馬子の本宅、通称「嶋の屋敷」と呼ばれる場所で、群卿を集めての会議が開かれた。
「嶋の屋敷」は馬子が贅を尽くして建設した邸宅であった。大王の宮に匹敵するほどの広い敷地の庭園には、大陸の宮廷を模して人工池を作った。その池の中央に小島を築いたことから、人々に「嶋の屋敷」と呼ばれるようになったのである。豪族はもちろん、皇族でさえそのような庭園を持っていない。
邸宅は、政務が行われる公的空間と、馬子ら家族が居住する私的空間とで棟が分けられていた。
馬子は、その公的空間、会議場である大広間に午餐の席を用意した。非公式な会議では食事や酒が振る舞われることも多々ある。
「さて」
皆の食事が進んだ頃合いを見て、馬子が切り出した。
「次の大王について、どなたがふさわしいと思われますかな」
群臣はそれぞれお互いの顔を窺った。前大王の即位も馬子と大后で決め、その大王を馬子の家臣が殺したのだ。自分たちに今さら何を訊こうというのだ、といった表情である。
皆が押し黙る中で、阿倍臣鳥が発言した。
「他田大王の皇子、橘豊日大王の皇子、どなたもそれぞれお若すぎる。私が思うに、次の大王には大后が適当と思われます。大后は、他田大王と共に長年政治を司り経験豊富、今も尚、神祇を行っている。先の大王があのようなことで、大王の権威が落ち世が乱れた。立て直すには皆が認める王であることが必要だと思われます」
群臣の間にざわめきが起こった。
「しかし、他に皇子がいるのに」
「なぜ大后を」
「確かに大后は立派でおられる。皆も先の大王には従わずとも、大后の言葉には従いました」
「しかしながら、女帝というのはこれまでに聞いたことがありませんなぁ」
皆が口々に賛否両論を申し立てた。
場の動揺を鎮めるように、
「いや、女性の大王が過去に例がないと言うが、まるっきりそうではありませんぞ。皆も存じているだろうが、この国には
境部臣摩理勢は馬子の弟であり、阿倍臣鳥は馬子の
「厩戸皇子ではどうでしょう」
群卿のひとりが口を挟んだ。馬子が厩戸皇子を推すと予想していた皆の考えを代弁したのだ。
それに答えて馬子が言った。
「うむ、私もそれは考えた。だが、いかんせん若すぎる。それに、大后の御子、竹田皇子は亡くなられたが、まだ弟君の尾張皇子がおられるし、大后は納得しまいと思うのだ。厩戸皇子、尾張皇子いずれも歳が若すぎて、どちらが大王にふさわしいか見極めかねる。そこで考えたのが、お二人が適齢になるまでの間、中継ぎとして大后にお願いしようということなのだ。大后が国をお治めになっているその間に我らは、厩戸皇子、尾張皇子の大王としての資質を見極めていくというのはどうだろう」
「中継ぎとな」
またしても皆がざわついた。
「中継ぎならば、女性でも何ら問題ないでしょう。ましてや、大后ならば申し分ない」
「そうですな。下手に他の皇子を立てると、前の大王の二の舞ともなりかねませんからな」
「そのようなまどろっこしいことをせずに、厩戸皇子に決めてしまえばいいものを」
「尾張皇子はどうする」
「だから、大后を」
「だがその前に皇子にもしものことがあったら、どうなるのだ」
皆が口々に言い合い、場は紛糾した。
馬子は、その場はひとまず閉会とし、日を改めて再び話し合おうと提案した。
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