女帝の憂鬱・皇子の受難

桃園沙里

第1話

 崇峻五年(西暦五百九十二年)十一月八日夕方、厩戸皇子は、亡き他田おさだ大王(敏達天皇)の皇后であった大后、額田部皇女ぬかたべのひめみこ(後の推古天皇)の宮にいた。

 この月の三日、泊瀬部はつせべ大王(崇峻天皇)が大臣蘇我馬子そがのうまこの家来である東漢直駒やまとのあやのこまによって弑逆されるという前代未聞の事件が起きたばかり、皇族も群臣も動揺している最中、厩戸皇子は額田部皇女に呼び出されたのである。

 誰が次の大王となるのか、まだ決まっていない。会議を三日後に控えて、群臣は意見を決めかねていた。決定的な皇子がいない中で、厩戸皇子は頭ひとつ抜きん出ていると見られていた。

 泊瀬部大王の前の大王、橘豊日たちばなのとよひ大王(用明天皇)の嫡男であり、幼少の頃から人並み外れた聡明さを顕していた厩戸皇子。母は敷島しきしま大王(欽明天皇)の皇女であり、血統も申し分ない。大后額田部皇女は父の実妹、更に、実質的な最高権力者とも言える大臣蘇我馬子の娘を妻にし、両親共に蘇我氏の血縁で、蘇我氏の後援を受けられることも大いに有利である。

 父の橘豊日大王が崩じた時、厩戸皇子は十四歳だった。まだ成人の儀式も済ませておらず、大王候補として名が挙がらなかった。五年経った今でも、いくら聡明といっても大王となるにはまだ若い。

 厩戸皇子は自分の立場を自覚していた。今日、大后の宮へ呼ばれたのも、単に彼女が皇族としての厩戸皇子の意見を聞こうというだけではないだろう。額田部皇女は、次期大王候補のひとり、尾張皇子の母親である。大方、厩戸皇子が大王の座を狙っているのか探る意図があるのだろう。

 大后の密談用の部屋か、宮の奥まった部屋には板張りの床に厚い布が敷かれ、数個の火鉢が部屋の四方に置かれていた。時折、木枯らしが戸を揺らす音がする。

 額田部皇女は毛皮が敷かれた台座から厩戸皇子を眺めた。

 彼女が厩戸皇子と会うのは、約一年ぶりである。昨年長男の竹田皇子を病気で亡くしてから公の場に顔を出していなかったし、今年の新年の挨拶も竹田皇子の喪中ゆえ断っていた。その一年余りの間に、厩戸皇子は少年の殻を脱ぎ捨て、眩い青年に成長していた。背丈も既に額田部皇女より大きく逞しい。子供の頃には少女と見紛うほどに愛らしい顔立ちだった少年は、期待以上に凛々しい青年となっていた。

 額田部皇女は若い厩戸皇子を目の前にして心躍った。竹田皇子が死んでから、楽しいことなど何ひとつなくふさぎ込んでいた額田部皇女にとって、久しぶりのときめきであった。

「皇子の意見を伺いましょう」

 額田部皇女は傍らに控えていた釆女を下がらせると、早速切り出した。

「ここには皇子と私しかおらぬ。大臣にも内緒にするゆえ、遠慮なく申しなさい。承知の通り、そなたの父君が崩じた後、次の大王を決めるまで時間がかかった為に世が乱れ、争いが生じた。早急に大王を決めなければ、今また世は乱れる。かといって、焦って愚かな人物を大王にしては、先王の二の舞。早急に、且つ慎重に決めねばならぬ。そなたは次の大王に誰がふさわしいと思われる」

 額田部皇女は重みのある声で言った。

 十余年もの長い間、他田大王の皇后の地位にいて大王の政務を助けてきた額田部皇女。大王亡き後も政治について大きな発言力を持つ。橘豊日大王が崩御した際の次期大王を決めるにあたっても、彼女の意見が尊重された。

 敷島大王の娘であり、他田大王の皇后であり、また橘豊日大王の同母妹であった額田部皇女。彼女もまた、今一番権力を持つ蘇我氏の血縁、大臣蘇我馬子の姪である。

 馬子の父、蘇我稲目は、大王の外戚になるため馬子の妹である堅塩媛きたしひめを敷島大王に嫁がせた。そうして生まれた額田部皇女を他田大王に嫁がせ、大王の正后であった広姫が没すると、額田部皇女を正后の座につかせたのである。

 夫の他田大王が崩御しても、彼女はただの大后にはならなかった。大王の死後、大王の最も重要な任務である神祇、本来なら泊瀬部大王が行うべき神祇を、大后が行うようになり、群臣もそれを認めた。彼女は大王の権威を削ぎ、それを自分のものとしたのである。

 厩戸皇子は、額田部皇女の考えを探ろうと、彼女の顔をじっと見た。

 御歳三十九歳の額田部皇女。鮮やかな色彩の絹の上着で身を包み、ふくよかな胸元には大きな瑪瑙の玉飾り、黄金の耳飾りが黒髪によく映える。寡婦となるにはあまりにも若く、美しさを持て余していた。脇息に軽くもたれかかったその身体は、緩やかな腰の線を作り出す。生まれながらにして男を惹きつける術を知っていたかと思われるその姿態。額田部皇女はしなやかな指先を、衣の袖から覗かせ厩戸皇子の目の前にひらひらと舞わせた。

「さあ、勿体ぶらずに言ってみなさい」

 十九歳の若者、厩戸皇子には、額田部皇女の媚びた姿態が滑稽に見えた。いくら美しくても自分の母より年長である。彼女の張りのない肌つやは、日頃若い釆女を見慣れている皇子をうんざりさせるものでしかなかった。かつて穴穂部皇子を惑わしたその色香も、厩戸皇子の前では威力を発揮しなかったのである。

「大后は誰が適当であると思われます」

 厩戸皇子は慎重に、額田部皇女の顔色を窺った。額田部皇女は馬子と親密な仲にある。迂闊なことは言えない。

「そなたの考えを申せ。私など、皇子の聡明さに比べたら浅薄なもの。いつもははっきりものを言うのに、任気無い」

「私も慎重に考えているのでございます。先の大王を決める際も随分と混乱いたしました」

 額田部皇女の夫である他田大王が崩御して以来、大王選びには血なまぐさい匂いがつきまとっていた。

 他田大王が崩御すると、大王の異母弟、厩戸皇子の父である橘豊日皇子が大王の位に就いた。しかし、橘豊日大王がわずか二年で病に倒れると、他田大王の嫡男である彦人皇子、他田大王の異母弟の穴穂部皇子をそれぞれ擁立しようとする豪族が争い、ついには蘇我氏対物部氏の合戦を引き起こした。戦さは蘇我氏が勝利し、穴穂部あなほべ皇子の同母弟の泊瀬部皇子が皇位に就いたのだが、そこに至るまで多くの血が流れたのである。

 そして今、泊瀬部大王は、大臣の家臣である東漢直駒に殺された。

 そんな争いの一部始終を見てきた厩戸皇子は、自分が次期大王に近い存在であることを自覚しているがゆえ、発言に用心深くした。

 当時の大王位の継承は、親子間よりも兄弟間が優先されていた。橘豊日大王、泊瀬部大王も共に、他田大王の異母弟である。他田大王の弟の中でも若い泊瀬部大王が死んだ今、大王位は他田大王、橘豊日大王の息子世代に変わろうとしていた。

 その世代の中で、最も大王に近い血統を持つのは彦人ひこひと皇子である。彦人皇子は他田大王の嫡男であったが、彼の母親である正后広姫は早くに没しており、他田大王から後援を託されていた三輪君みわのきみも先の大王争いの最中に死んだ。後見がなく、蘇我氏との繋がりが全くなく蘇我氏に疎まれている彦人皇子は、今ではほとんど表舞台に出てこない。

 次いで竹田皇子だったのだが、昨年若くして没した。竹田皇子は厩戸皇子より年長、今でも大きな力を持つ額田部皇女を母に持ち、生きていれば最も有力な大王候補となっていたであろう。

 竹田皇子を溺愛していた額田部皇女にとって、皇子の死は辛いものだった。もうひとりの息子、尾張皇子はまだ幼い。

 そして厩戸皇子はその次に位置する。他には候補になるような有力な皇子は見当たらない。

「ええ、はっきり言いましょう。大臣は私が大王になってくれまいかと言ってきました」

「なるほど。先の大王を決める際には世が乱れました。今また、皆が動揺している。大后ならば動揺を鎮めることができると大臣は思われたのでしょう」

「私は悩んでおります」

「何を悩むことなどございましょう。他に適任が見あたらない今、大后がお受けなさることが一番よろしいかと存じます」

「そなたがなればいいものを。群臣も誰も反対しますまい」

 額田部皇女は左手でうなじをそっと撫で上げ、意味深な視線を厩戸皇子に送った。

 厩戸皇子はそんな額田部皇女の仕草を見て見ぬふりをした。

「私にはそのつもりがございません」

 額田部皇女は目を見開いた。

「なんと。そなたは大王になりたくないのですか」

 厩戸皇子は言葉を選びながら答えた。

「私は自身の立場を冷静に見ているのでございます。父の在位期間も短く、父の業績は先の他田大王の足下にも及ばぬ上、母も田目ため皇子と再婚しもはや大后ではありません。何の経験もない未熟な若輩の私には、大王になる力はありませぬ」

「随分と謙遜するではないか。そなたの知識には大臣とて舌を巻くほどではないか。経験など後からついてくるもの。そなたなら大臣も群臣も喜んで従いましょうに」

「大臣は大后を大王に推しておられる。回りを見渡しても大后以上に適任はいないと私も思います」

「そなたは大王になりたくはないのですか。私が大王に立てば、いずれ、我が子尾張皇子に後を任せましょう。そうなれば、そなたに王位が回ってくる可能性はほとんどなくなる」

「それならばそれ。私が大王になるべきではなかったと天がお決めになったのでしょう」

「天に任せると。本当にそれでよいのか。私がそなたを大王に推せば、他の群臣は従いましょう。そなたが今ここで、私に頼むならば私も考えてもよいが」

「いいえ、それには及びませぬ。大后は大臣の申し出を受けるがよいでしょう」

 額田部皇女は戸惑った。過去において、どの皇子も大王になりたがり自分の言葉を得ようとこの宮を訪れた。額田部皇女が誘い水を出さなくても、自分から言い出した。それが今、厩戸皇子はその誘いを断る。目の前のこの若者が何を考えているのか。

 そんな額田部皇女の様子を気にしていないかのように、厩戸皇子は口元に穏やかな微笑みを浮かべていた。

 額田部皇女は、厩戸皇子が幼少の頃から気に掛けていた。

 眉目秀麗にして、優雅な立ち居振る舞い、そしてその外見には似つかわしくない、大人をも畏服させる威厳ある物言い。幼い頃から神童と崇められ類い希なる英姿には神々しさすら感じられる。

 皇子たちが一同に集まる席でも、厩戸皇子はひときわ輝いていた。厩戸皇子と並べば、自分の息子たちが見劣りすることを認めざるを得なかった。竹田皇子の地位を脅かす人間は厩戸皇子をおいて他にない。竹田皇子が即位する将来に最大な障害となる。ずっとそう思って目をふさいでいた。しかし、その竹田皇子も今は亡い。

 今日、厩戸皇子の顔を見るまでは、自分が大王となり息子の尾張皇子を太子にすると決めていた。厩戸皇子を呼んだのは、彼が大王の座を狙っているかどうかを探るためである。もし彼が大王になりたいと言い出せば、馬子と結託して厩戸皇子を潰しに掛かるつもりであったのだ。

 ところが彼は大王になるつもりはないと明確に言った。尾張皇子が大王になってもよいと言った。彼の考えはどこにあるのか。いいや、そんなことはどうでもいい。若く美しい厩戸皇子を目の前にしているうちに、額田部皇女の心に新たな考えが浮かんできた。

「私が大王になれば、おそらく私は息子の尾張皇子を太子としましょう。それでもよいのですね」

「承知しております」

 厩戸皇子はどこまでも落ち着いていた。

「わかりました。私は大王に立ちましょう」

「それがご賢明と思われます」

「私が大王になれば、そなたを太子に指名することができます。そなたが望むならば」

 厩戸皇子は、額田部皇女の言葉がすぐに理解できなかった。怪訝な顔をしている厩戸皇子に額田部皇女は続けた。

「ひとつ条件があります」

 額田部皇女が言い出すこと、これこそが彼女の望み。

「私をそなたの妃とすること。すれば私はそなたを太子にしましょう。そして私がそなたの子を成したら、その時、大王の位を譲りましょう」

 厩戸皇子の顔が硬直した。

 普段は本心を顔に出さない厩戸皇子のこのような表情は、額田部皇女の心をくすぐった。今すぐにでも皇子に触れたい、そんな気持ちにさせた。

 厩戸皇子は斜めに視線を落とし、切れ長の目に長い睫毛を震わせた。厩戸皇子は考えごとをする時、よくこの顔をする。そしてそれは額田部皇女の好む表情であった。

 火鉢の炭が爆ぜる音が部屋の中に響いた。

 厩戸皇子は視線を上げ、その黒曜石の瞳にとまどいの色を浮かべながら、額田部皇女に言った。

「今、お返事しなければなりませんか」

 額田部皇女は勝ち誇った顔で言った。

「そなたがその気になったら、いつでも来られるがよい」

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