第二話・窓際会社員 安賀田まさし

「だからねぇ、周りに示しがつかないんだよ」




 会議室。昼休憩は間もなく終わる時間だ。食堂に向かう途中で上司から呼び止められ、人目につかないこの場所に連れてこられた。そこから既に三十分以上愚痴愚痴と小言を言われ続けている。


安賀田あがたくぅん。奥さんの看病だっていうけどさぁ、もう何年も経つじゃない。いつまでこうなわけ?」

「……部長。最初に説明しましたが、妻の病気は完治するものではないので」

「そうは言ってもさぁ、じゃあ定年退職するまでずっと定時で帰るわけ? 休日出勤も泊まりの出張も出来ないって言うしさぁ。まったく……最近はアジア向け商品が全く動かなくて社全体の業績が落ちてるってのに。会社ウチも社員を遊ばせておく余裕はないんだよ? んん〜?」


 安賀田と呼ばれた四十代後半の男は、貫禄ある巨体の前でしきりに頭を下げた。直属の上司である部長は困り顔でチクチクと責め立ててくる。同じ内容の小言がもう何度ループしているか分からない。


 こうなると「すみません」と繰り返すしかない。部長の気が済むまで頭を下げ続け、結局この日は昼食を食べ損ねた。


 繁忙期に残業が出来ないということは、例え事情があるにせよ良い顔はされない。最初の頃は笑顔で送り出してくれていた部長でさえ、今では顔を見れば必ず文句をつけてくる。どれだけ業務で貢献しようとも、古い体質の会社では勤務時間の長さがものを言うのだ。


 この日も同僚達からの冷たい視線に耐えながら定時で退社した。この瞬間だけはいつまで経っても慣れない。逆の立場なら自分も冷たい視線を送っていただろうと思うと溜め息が自然と漏れた。


 車に乗り、帰路にあるスーパーで食材の買い出しをしてから自宅に向かう。夕方の道路は混雑している。定時上がりをするようになってから、抜け道をいくつか開拓した。せっかく定時で帰るのに、渋滞に捕まっては意味がないからだ。


 自宅は閑静な住宅街の一角にある。陽が落ちかけて薄暗くなった駐車場に車を止め、買い物袋を持って玄関の鍵を開けた。


「ただいま」


 返事はない。

 そのまま靴を脱いで上がり、買ってきた食材を冷蔵庫に詰める。同時に、これから使う食材を出しておく。片付け終え、まず米を研ぐ。炊飯器にセットしてボタンを押し、炊き上がるまでにおかずを用意する。今日は魚だ。



『ピンポーン』



 棚からフライパンを取り出したところでチャイムが鳴った。回覧板だろうか。そう思い、靴を履き直して玄関のドアを開けた。


「どうも。安賀田まさしさん、ですね」

「はあ、そうですけども」


 ドアの前に立っていたのは、年配の男と若い男女。三人ともきっちりと背広を着ている。手には黒い手提げ鞄があり、いくつかの茶封筒が覗いている。


「私どもは県の保護政策推進課の者です。大事なお話がありますので、お宅に上がらせていただいても?」


 見せられた身分証はしっかりした作りであった。県の職員が訪ねてくる理由に心当たりはないが、年配の職員の物腰と口調は柔らかく、悪い印象はない。安賀田はそのまま「どうぞ」と中に招き入れた。

 押入れから人数分の座布団を出し、居間に並べて座るように促すと、職員たちはにこりと笑って腰を下ろした。


「急にお訪ねして申し訳ない。今、大丈夫ですか」

「まあ、少しでしたら」

「ありがとうございます。では」


 年配の職員は若い男性職員から茶封筒を受け取り、中身を座敷机の上に並べていった。勤め先の情報や妻の診断書、預金の残高証明。すべて個人情報だ。それを見て、安賀田は眉間にシワを寄せた。


「失礼ながら、安賀田さんのことを調べさせていただきました。難病の奥様がいらっしゃいますよね」

「……はい」

「難病なのに医療費の助成対象外で、自己負担がかなり大きいようですね。それに、発症してから奥様は以前のように動けなくなっている、と」


 難病指定に入るという知らせならば、かかりつけの病院から連絡がくるだろう。わざわざ自宅に、それも帰宅時間を見計らったように県の職員が訪れた理由はまだ明かされていない。


「あの、それで、お話というのは」

「失礼しました。本題はここからです。……安賀田まさしさん、四十八歳。奥様のちえこさん、五十歳。約四年前に難病を発症し、一昨年以降は安賀田さんが家事を全て担っているとか。……頑張っておられますね」

「は、はあ……」


 自分より年上の職員に労われ、安賀田は少し嬉しくなった。自分の頑張りが認められた気がしたのだ。

 しかし、わずかに上向きになった気持ちは、次の瞬間に地に落とされた。


「安賀田さんには、と考えております」


 

 目の前に座る年配の職員は確かにそう言った。


 安賀田はしばし固まった。聞き間違いか、言い間違いか。向かいに座る三人の表情を見る限り、少なくとも冗談ではなさそうだ。

 更に封筒から数枚の書類が取り出され、座敷机の上に並べられた。日本近海の地図と衛星写真だ。


「現在、我が国は近隣の国と非常に険悪な状況にあります。間もなく戦争が始まるでしょう。そうなる前に敵対国が持ち込んだ兵器を破壊し、本土決戦を避けたいと考えております」

「せ、戦争?」


 間の抜けた声で安賀田は聞き返した。

 新聞もテレビも、職場の人間からもそんなニュースは聞いた事がない。


「残念ながら事実です。そして、かなり差し迫った話です」

「と、とても信じられません」

「スマホはお持ちですか。試しにSNSか質問サイトで『日本が戦争間近』などと投稿してみてください」


 その言葉に従って実行してみると、投稿した文章はわずか数秒で削除された。何度か試してみたが、無関係な内容のものは残り、戦争関連の投稿だけが消された。


 ──情報統制。


 自分より年上の職員が真面目な顔で言っている。これが一人なら妄想癖のある頭のおかしい人間だと一蹴出来ただろう。だが、職員は他に二人いる。彼らは一言も発していないが、ずっと真剣な面持ちで控えている。


「最悪国土が戦場と化す可能性がありますが、国はシェルターを用意しております。核にも耐える地下施設ですが、入るには一人五百万円を即金で支払う必要があります」

「ご、五百……」


 安賀田は机の上の預金残高証明書をちらりと見た。今日付の残高が記載されている。四百三十万。一人分にはやや足りない。二人分となれば手が届かない。


「そんなお金は、とても」

「そこで先程のお話です。安賀田さんが参加してくださるのであれば、奥様をシェルターにて保護いたします。もちろん内部の医療施設で最新の治療が受けられます。認可前の新薬を使用することも出来るでしょう。薬代や医療費も国が負担いたします」


 協力すれば五百万円以上の対価が得られるということだ。それならばと思ったが、うまい話には必ず裏がある。


「この軍事作戦は、いわば特攻隊。参加すれば生きて帰れる保証はありません」

「……何故私にそんな話を?」

「一定の条件を満たした方にのみ打診しております。近々一般の国民の皆様にも案内が出されますが、その前に、協力いただける方に限り優先でシェルターの枠を確保しております。……安賀田さんは非常に優秀な人材です。リーダーシップがあり、人をまとめ、導く力がある。この作戦で、あなたには是非とも他のメンバーをまとめていただきたいのです」


 この話は自分だけに持ち込まれたのではない。他にも同じような条件の誰かが誘われていて、その人達と組まされるのだと悟った。

 明日の同じ時間に返事を聞きに来ますと言い残し、三人組は帰っていった。資料は残らず回収されたが、代わりに三枚の名刺が渡された。


 この数年で貯蓄はかなり減った。妻の医療費が高いからだ。発症後に数回に渡って長期入院。新薬は高価で保険適用外、しかも副作用が激しい。妻は発症するまでフルタイムで働いていたが体調が安定せず、一昨年退職した。

 病院への送迎や家事をやるために残業をしなくなったのも大きい。安賀田は同年代の中では給料が多いほうだと思っていたが、残業をしなくなったら手取りが半分近く下がった。評価も下がり、ここ二年のボーナスはごくわずか。


「五百万……」


 譫言うわごとのように繰り返す。

 妻の発症前ならば、二人分の一千万円でも難なく支払えた。しかし通院費や薬代、ヘルパー代等がかさみ、通帳の数字はみるみるうちに減っていった。段差の多いマンションからリフォーム可能な中古住宅を購入してバリアフリーにしたばかりなのも大きい。


 給料の前借りを頼むのは無理だ。今の安賀田の会社での立場は弱い。ならば銀行でと考えたが、この件での借金は認められていないと帰り際に念を押された。戦争になれば回収不能になるからだ。



 『安賀田さんは非常に優秀な人材です』



 先程の言葉を何度も何度も反芻する。

 以前の安賀田は重要な案件を任され、国外のクライアントとも直接やり取りしていた。しかし、ここ数年は同僚に疎まれ、上司からは叱責され、会社の評価は下がる一方。他人から褒められたり労われたのは久し振りだった。それが例え戦場に連れ出すための方便だとしても涙が出るほど嬉しい言葉だった。



 『ピーーー』



 炊飯器の炊き上がりの電子音が鳴った。

 夕食の支度が途中だったことを思い出し、安賀田は重い腰を上げた。キッチンに出しっ放しにしていた魚のパックは表面が結露していた。包装を剥がし、中の切り身に軽く塩を振る。


「おかえりなさい、あなた」

「ちえこ。起きて大丈夫か」


 寝巻き姿の妻、ちえこが足を引きずるようにして居間に出てきた。昨夜は薬の副作用の疼痛であまり眠れていなかったようだから今まで寝ていたのだろう。

 作りかけの夕食を見て、ちえこは申し訳なさそうに項垂れた。


「……ごめんなさい。せめてご飯の支度くらいしたいんだけど」

「なんで謝るんだ。オレはやりたいからやってるんだ。見ろ、美味そうに焼けただろ?」


 フライパンを傾けて両面こんがり焼かれた魚を見せると、ちえこは笑って頷いた。これに味噌汁と買ってきた惣菜のきんぴらを付ければ夕食の完成だ。


「ちえこ、あのな……」

「なあに?」

「……いや、なんでもない。味噌汁辛くないか」

「ちょうどいいわよ」


 食事中さっきの話を相談しようとしたが、やめた。もしあの話をすれば、普段から引け目を感じているちえこは必ず反対する。

 戦争になれば流通が途絶え、普通の暮らしすらままならなくなる。難病の薬など真っ先に手に入らなくなるだろう。そうしたら、今以上にちえこは苦しむ。


 結婚して二十年。子宝には恵まれなかったが、楽しい結婚生活を送ってこれた。仕事人間だった安賀田を、快活で働き者のちえこが隣でずっと支えてくれたからだ。


 たった数年看病や家事をしたくらいで恩が返せるものか。


「はは、やっぱりちょっと辛いな」


 目の端に滲む涙を隠すように、安賀田はお椀を傾けた。

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