18_4

 ポケットの中、スマホが振動している。急いで取り出すと画面には『京子』の二文字が出ていた。


 ——そうかっ!


 中嶋さんの家に着いたら電話をかける約束だったと思い出し、すぐにタップする。


『ザザザ……ザザッ……』


 雑音。棚橋さんの携帯は圏外だと言っていた。電波の状況が悪い。でも、それでも——。


「京子、京子!」

『真矢ちゃ……ザザ……したら……ザザザザザ……』

「その家! 中嶋さんって表札のその家! その家に入って、お母様と電話を代わってっ!」

『え? ザザザ……な……で?』

「いいからっ! いますぐに、いますぐにお願いっ!」

『分か………ザザザザ……』


 殺音。いつ切れるか分からない携帯の電波。でもそれでも、一縷の望みがあるならば——


 ——お願い、はやく出て。そしてお願い、切れないで。助けて、お願い……


 ゆららさんの激しい呼吸が聞こえる。陣痛と陣痛の合間。いまならば。いまならばきっと——


 ——お母さんの声も届くはず! そうすれば、きっとゆららさんの意識が身体に戻ってくる。そう、そう信じたい!


「お願い、はやく。はやく、京子、はやく……」


 スマホを握りしめる。びくんとゆららさんの足が動いた。膨らんだお腹もぐにゅりと動いている。これ以上ない程に顔を歪め、ゆららさんの身体はまた重低音の呻き声を発し始めた。まだ、瞳は濁っている。


 ぼたぼたっ。


 ゆららさんの足元から水が床に落ちる音がして視線を動かした。足の間からは湯気が舞い上がっている。


 ——これは、きっと……

 

 破水。子供を産んだことがないからわからないけれど、これはきっと、破水に違いない。お腹がまたぐにゅりと動く。顎が外れるほど口を開け「ああぁぁあ」と声にならぬ声を絞り出すゆららさんの瞳はまだ白濁している。


 ——産まれる。産まれてくる……。助けなきゃ、なんとしても助けなきゃ。


「出てくる……。きっと、もうすぐ赤ちゃんが……。京子っ! はやくっ! お願い!」


 この時間がもどかしい。切れないでと祈りながら、スマホを耳に押し当てる。と、耳朶に柔らかな声が流れ込んだ。


『もしもし? 二階堂さん?』

「あああ、あああ……」良かったと涙が溢れ出す。


「中嶋さん、美咲さんを見つけました。いま、いま、赤ちゃんが産まれそうなんです!」

『ザザザッ……んて……』

「美咲さんを見つけました! いま、赤ちゃんを、赤ちゃんを……声をかけてあげてくださいっ! お願いします! お願いします!」

『美咲……ザザザッ……ザザザザッ……ちゃん?』

「いま、耳元にスマホを置きますから! スピーカーにしますので、名前を! 美咲さんの名前を……」


 スピーカーにして耳元へ。ゆららさんにお母さんの声を聞かせるんだ。そうすれば、きっと。きっと。


 ——お願い、意識よ戻れ!


 呻き声が止んだ。激しい呼吸音の中、中嶋さんの声が、娘の名前を呼ぶ声が聴こえる。


『美咲、美咲……! 美咲、ザザザザッ…… 美……!』




 ——美咲……


 声が聴こえた。

 真矢ちゃんではない女性の声が。


 ——美咲……


 あの声は、きっと——!


「お母さんですよ! 美咲さん、お母さんが呼んでいますよ!」


 ——美咲……


「ほら、聴こえませんか? お母さんが美咲さんを呼んでいるんですよ!」


 頭上から差し込む光が大きくなっていく。天を仰ぎ涙が溢れた。大丈夫。きっと、きっと大丈夫。そう思える。


 ——美咲……


「美咲さん、起きてください! 美咲さん!」


 腕の中、掌が触れている大きなお腹がぐにゃりと動いた。赤ちゃんもお腹の中で生きている。大丈夫。きっと、もう大丈夫。そう信じて呼びかけ続ける。


「美咲さん、美咲さん!」


「ぁあ……」声を漏らしながら腕の中、彼女の瞳には光が差し込みはじめた。みるみるうちに目の縁が赤くなり、大粒の涙が彼女の頬を伝う。


「わたし……、わたし……」


 ——美咲……美咲、がんばれ、みさ、き


「お母さん……」美咲さんはそう呟くと同時にお腹を押さえ込み、呻き始めた。地鳴りのような重低音の声を漏らしながら、彼女の身体がだんだん薄くなっていく。


 ——もう、これできっともう、大丈夫だ……


 僕はそう思った。だって美咲さんは天から降り注ぐ光に包まれいるし、その優しい光はみるみるうちに範囲を広げているのだから。




「ぁあああぁ……」


 ゆららさんの目が。虚だった瞳に光が戻り始めている。


『美咲、美咲、お母さザザザッ……がん……れ美咲ザザザッ……! 頑張って……美咲、お母さんはここにいるよ……』


「あぁあああぁ……」美咲さんの意識が戻ってくる。


 ゆららさんの目が光を取り戻す。

 ゆららさんの瞳がみるみる潤んでいく。

 零れ落ちる涙が頬を伝っていく。


「おか……さん……おか、あぁあああああぁぁあー!」


 ゆららさんの意識が身体に戻った。黒々と潤む瞳。瞳孔も正常。良かった。これで、きっとこれでもう——



「きっとこれでもう……」


 ——大丈夫だ。


 天から差し込む光に包まれて、美咲さんは僕の腕を離れた。ふわりと浮かび上がり、光の源に吸い込まれていく彼女の姿を見ながら、僕はもう一度思った。これでもう、大丈夫だ。


「真矢ちゃん、中嶋さんとの約束が……果たせるね……」


 鼻の奥がツンとした。すぐに涙が溢れ始め、滲む視界の中、僕は光に吸い込まれていく美咲さんの姿を見ていた。良かった。これで、きっともう大丈夫だ。美咲さんの身体が光の源に吸い込まれたのを確認して、僕は目を閉じた。


「真矢ちゃ……」


 力の抜けきった僕の身体はまた文字の海に沈んでいく。薄れていく意識。音のない世界。自分の鼓動さえ聞こえない。でも、不思議と怖いとは思わない。胸の奥があたたかい。もしもこれが死なのだとすれば、それも良いかもしれない。父さんや母さん、姉さんには会えるだろうか。


 身体の感覚が消え失せていく。

 ようやく解放される。

 僕はそう思った。





 スマホはいつの間にか切れ、激しい呼吸音だけが辺りに響いている。


 美咲さんの手を握った。美咲さんは意識が朦朧としている。でも、これは陣痛と陣痛の合間で乗っ取られたわけじゃない。そう、確信できる。


「美咲さん……」


 わたしの問いかけに、視線がこちらを向く。


「赤ちゃん、大丈夫ですよ。わたし、受け止めます」


 黒い瞳が潤んでいる。微かに頬があがった。唇が「ありがとう」と動いた気がした。でも、すぐに眉間に皺がより苦しそうな表情が戻ってくる。拘束が解けた身体。寝ている祭壇を両手で掴み、美咲さんは膝を持ち上げた。


 産まれる。もうすぐ、産まれる。ゆららさんが、美咲さんが、身体を奪われても、意識を閉じ込められても、守り抜きたかった命が、いま産まれる。


「ぁあああぁあああぁぁあああー!」


 手を離し、足の間に移動する。子供を産んだことはない。知識もほとんど持ち合わせていない。


 ——でも、それでも。


 何が正解かわからない。


 ——でも、それでも。


「頑張って! 美咲さんも、赤ちゃんも頑張って!」


 白いワンピースをめくりあげ、中腰になった。股の間。見える。ぬらぬらと濡れた黒い髪の毛が、見える。そっと手を伸ばし、触れる。ねっとりとした命の温もりが指先を濡らしていく。美咲さんに声をかける。美咲さんは声にならない声をあげている。


「美咲さん、頭が出てきましたよ! もうすぐですよ! 頑張って!」


 声をかけ続ける。それが正解かどうかわからないけれど、そうしていないといけない気がした。違う。そうしていないと、自分が壊れそうになる。励まし、それで励まされ、そうやって今ここにわたしはいる。触れているわたしの手を押しやって、赤ちゃんの頭がゆっくりと廻り始めた。美咲さんの声がやみ、代わりに激しい呼吸音が聞こえる。大丈夫。もう、すぐそこまで赤ちゃんは来ている。


「美咲さん……、もう少し……、もう少しですよ……! ああぁ……」


 神々しく舞い上がる白い湯気。

 わたしの手に生命力の圧がかかる。


 寒くて暗い地下室で、元気な産声と共に大きな男の子が誕生した。




  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る