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 視界の隅。灰色の物体が床で動くのが見える。棚橋さんだ。お札に手を伸ばそうとしている——、そう思った瞬間。重低音の叫び声がまた地下室に響き渡った。


 地下室の中央、祭壇に視線を向ける。白い物体。祭壇の女性は手足の自由が効かないのか、身をよじり、低い唸り声が押し寄せる波のように強弱を繰り返している。人とは思えぬ叫び声。苦しそうな声。これは魂の叫び、あれはきっと陣痛——


 ——お腹の子が産まれる、やっぱりあの人は、産もうとしている。


 重低音の叫び声に共鳴する心。ありったけの力を込めて、わたしも声にならない声を絞り出す。


「おぉおおお……おおおぉぉ……っ!」


 ——動け身体……っ! 動いてくれっ……!


 床に視線を向ける。棚橋さんの指が床を這いずっている。お札まで後少し。カイリ君の身体はそれに気づかないのかラブちゃんをさらに締め上げていく。首をかくんと動かすとカイリ君の身体はまた言葉を発した。


「僕はそんなに弱くない」


「お前——」とカイリ君の顔がこちらを向く。ぺろりと唇を舐め「行け」とカイリ君の身体が声を発すると、弾かれたように身体が動いた。視えない触手に引き摺られる身体は勢いを増し——、ごんっと鈍い音が脳天に響く。痛い。生温かい感触が頬を伝う。額から血が出ている。そう認識するや否や、カクンと膝が抜け、硬直していた身体が自由を取り戻した。動く。手も、足も、首も。それに——。


 祭壇にぶつかったのだと気づき、急いで立ち上がり女性を見た。


「酷い……」


 人型の台の上、視えない拘束具に四肢を固定され、激しい呼吸を繰り返す女性は虚を見つめている。舞い上がる吐息。白いワンピースを着た全身からも湯気が上がっている。


 ——この顔、間違いない。写真で見た女性。この人が、ゆららさん、中嶋美咲さんだ……


 手を伸ばしゆららさんの頬に触れる。身体中から湯気が上がっているのに、酷く冷たい頬の感触は蝋人形のように皮膚が固まっている。まるでご遺体のような感触。それに虚な瞳も明らかにおかしい。白濁した瞳は魂が抜けているようだ。


 ——カイリ君と同様、ゆららさんの意識もここにいない……。


「切り裂け」頭の中に声が流れ込み、顔をあげた。大きなお腹の上に鋭い刃物が浮かんでいる。銀色の刃先には壁の蝋燭が反射して揺れている。急いでお腹に覆い被さり、拳を握り締め「いやだ」と声に出した。


「お前がその刃物で切り裂き生贄を取り出せ」

「そんなことできないっ!」

「やれ」


 身体が勝手に動く。身体がゆららさんから離れ、抵抗虚しく握りしめた指が開き、木でできた持ち手を握る。ギラリと光る刃先には歪んだ自分の顔が映っている。嫌だ。切り裂くなんて。そんなこと、絶対に嫌だ。でも身体がいうことを効かない。どんどん刃先が丸いお腹に向かって降りていく。


 ——ダメだ。抵抗できない……!


 カイリ君の身体は背中を向けさらにラブちゃんを締め上げている。苦しそうなラブちゃんの顔。ぼたぼたと血が床に落ちている。


 なにもできない。それに、刃物はお腹まで残り数センチ。


「いやだ……やめて……」


 わたしの力ではどうしようもできないのか。刃先が白い洋服に触れる。このままでは大きなお腹に、胎児に、刃物が突き刺さってしまう。ぎりっと奥歯を噛み締める。力を振り、上に上に刃物を引っ張り上げ、叫んだ。


「うおおぉおおー! そんなことさせないぃー!」


うるい」と、背中を向けていたカイリ君の身体がこちらを向く。その顔を睨みつけ、「絶対にさせないー!」と声を振り絞る。カイリ君の顔がカクンと横に少し傾いた。「やれ」と頭の中で声が聞こえる。さらに刃物は下へと向かう力を強めている。抵抗できない。でも絶対に諦めない。それに、棚橋さんが床に落ちたお札を拾うのが見えた。時間を稼がなくては。咄嗟にそう思い言葉を続ける。


「こんなことしても神様にはなれないっ!」

「なれる。この結界の中、そうやって力の継承をしてきた」

「それでもわたしは絶対にいやだっ! こんなこと酷すぎるっ!」

「黙れ」

「……ぅッ!」


 むぎゅ。変な音が出る。縫われたように唇が動かない。舌で押しても力を込めてもびくともしない。声が出ない。唇が開かない。もう言葉を発することはできない。でも。


 こちらを向いているカイリ君の身体の奥で、棚橋さんが何枚もお札を手に持ち、ラブちゃんの身体に近づけるのが見えた。と同時に、ふっと拘束が解け、握っていた刃物を投げ捨てた。急ぎ見る。良かった。激しい呼吸を繰り返しているけれど、ゆららさんのお腹には傷はない。ゆららさんの冷たい手を握りしめ「良かった」と声が漏れた。


 ラブちゃんたちに視線を戻す。ラブちゃんは床に立っている。棚橋さんがその身体を支えている。カイリ君の身体はこちらを向いて固まっている。


 ラブちゃんが「ふうー」と長く息を吐く。舞い上がる白い吐息。白い靄を裂くように「お前を作ったのが誰なのか知ってるぞ」と、ラブちゃんの声がした。カイリ君の身体がびくんと震え、ラブちゃんたちの方に向き直りカクカクと揺れ始めた。


 洋服のボタンを引きちぎり、ラブちゃんが服を脱ぎ捨てるのが見える。露わになる素肌。胸には白いサラシを巻き、腹部には黒い模様が浮き出ている。幾何学的な模様が描かれた腹部。魔物を取り込む力があると言っていた。それが、あの黒い円を描くタトゥー。


「お前を作ったのが誰なのか知っているぞ」低い声でまたラブちゃんは言う。カイリ君の身体がカクンと糸が切れたマリオネットのように傾いた。


「やめろ。人間どもめ」


 人ならぬ声が地下室に響き、蝋燭の炎が大きく揺れる。ラブちゃんはお腹に呪符を当てた。カクンカクン、カクン。カイリ君の身体がさらに変な方向に傾き、頭上の人形がぐらりと揺れる。


「お前を作ったのは——」ラブちゃんが呪文のような異国の言葉を唱え始めた。と同時にカイリ君の身体もさらにクラクラと揺れ始めた。剥がして持ってきた呪符が何枚か、めらめらと燃え上がり灰になっていくのが見える。


「ゃめろ……」変な音階の異様な声が地下室に響く。


 ——ラブちゃんは自分の子宮に貓鬼を封印しようとしている。ラブちゃんの呪文も剥がして持ってきた呪符も確実に効いていると、信じたいっ!


 ゆららさんの手を握りしめながら、祈るような気持ちでその様子を目に焼き付ける。燃え残った呪符が何枚かラブちゃんのお腹に張り付くのが見えた。「お前を作ったのは——」ラブちゃんの声が聞こえる。呪符がチリチリと端から燃え始め、ラブちゃんの腹部が真紅の炎に包まれていく。


「あれは……」


 祈りが届いたのか。ラブちゃんの後ろに、白い異国の衣を纏った女性が何人も立っているのが見える。半透明の人影。髪飾りをつけた黒髪の女性が、何人も、何人も——

 

 ——あれはきっと、歴代のリンメイシァオ……


 息を飲む。

 呼吸を止めて祈る。


 ——お願いです。どうか、どうか、助けて……

 

 炎はだんだん大きく範囲を広げていく。深紅の炎は、ラブちゃんの全身を包み込み、カイリ君の身体まで呑み込んだ。


 ——刹那。


 耳を劈くような破裂音が地下室に響き渡った。キィィーンと耳の奥が痛む。反射的に閉じた瞳の奥で銃声だと気づき、パッと目を開けた。火薬の匂い。間違いない。棚橋さんが銃を発砲した。


 白い煙が漂う地下室。真紅の炎も白い人影も消え失せて、糸の切れたマリオネットのようにカイリ君の身体がどさりと床に倒れた。次いでラブちゃんの身体が揺れ、崩れ落ちるように床に沈んでいく。


「ラブちゃんっ……! カイリ君……っ!」走ってこうとした時、「こっちは良いからその人をっ!」と、地下室に棚橋さんの声が響く。


「でも……っ」

「こっちは任せてくださいっ……!」

 

 ぎゅと唇を噛み締めた。そうだ。祭壇の上、ゆららさんは激しい呼吸を繰り返している。今わたしがここを離れたら、いけない。やるべきことをするしかない。白濁した瞳は相変わらずで、ゆららさんの意識はここに戻ってきていない。


「戻ってきてください……、ゆららさん、美咲さん、意識をここに戻して。もう、もう、赤ちゃんが、赤ちゃんが……」


 その時、わたしの腹部に馴染みのある振動が伝わった。




 

 

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