18_1
暗闇の中差し込む光。見える範囲には何もない。微かに香る浄化の煙。この中にきっとカイリ君はいる。
「入って来いってことね」ラブちゃんが呟く。無言で頷く棚橋さんが先に入り、ラブちゃんとわたしもそれに続いた。
闇を切り裂く懐中電灯の光。壁際に浮かび上がる壺の数々。お線香のような浄化の煙の匂いに混じり、鉄の錆びたような臭いがする。血の匂い。咄嗟に気づき二の腕を抱く。冷静に冷静に。そう思うけれど空間自体が持つ瘴気に気圧されそうな自分がいる。懐中電灯は壁際から天井に向けられた。高い。さっきまでの地下室とは明らかに別物だ——と思ったその時。
——パチン
乾いた音がした。瞬間。ぼっと音を出し炎が立ち昇る。壁に取り付けられた燭台の蝋燭が一気に燃え、地下室の全容が見えた。六角形の部屋は思った以上に広い。すぐそばにはラブちゃんと棚橋さんの姿がある。そして、部屋の中央部分、一段上がった場所に白いモノが見えた。炎の揺れる地下室。台の上に置かれた白い布からは棒のようなものが二本突き出ている。あれは多分——
——足。
地下室の中央部分、祭壇のような場所に寝かされた人は
「カイリ君でしょうか——」
目を凝らす。台までは少し距離がある。薄暗い部屋の中ではカイリ君かどうかまで判別できない。
——でもあれはきっと、女性の足。
そう思った瞬間。蝋燭の炎が大きく揺れ、黒い微細な粒子が部屋の隅々から祭壇に引き寄せられ、天井に立ち昇った。ひどく冷たい風が舞い上がり頬にかかる髪を手で押さえながら目を凝らす。黒い粒子は大きな塊となり、やがてその像を結ぶ。漆黒の衣を纏った人影は、白くて美しい顔を浮かせている。間違いない。あれはカイリ君。でも——
——カイリ君だけど、カイリ君じゃない。
炎に照らされたカイリ君の瞳は白目を剥いている。弓形に口を引きつり笑っている。人とは思えぬ異様な形相に怖気が走った。それに胸元に何かを抱いている。
目を凝らす。
風が止み揺れる炎の明かりでそれが何かわかる。あれは人形。あの、町田さんに見せてもらった写真の人形が腕に抱かれている。黒いタキシードのような服を着た人形は真っ直ぐこちらを向いている。
「お出ましね」ラブちゃんが隣で低く呟く。と同時に、「あはははは。うふふふふ」と、男とも女とも分からぬ声が地下室に響いた。操られている。カイリ君は身体を乗っ取られている。いますぐに名前を呼ばなくてはと思った。
——でも。
唇が縫われたように開かない。うぐぅ。んぎゅ。変な音が口の奥で鳴る。それに石像のように身体が固まって自由が効かない。唯一動く眼球でラブちゃんを見ると、ラブちゃんも同じなのか表情を歪ませ唇を閉じていた。
「あはははは」
——カイリ君っ……!
声にならぬ声を喉の奥で鳴らし、キッとカイリ君の身体を睨み付ける。
「子供ができたならそれを生贄にすればいいものを——」
——こ、ども……?
「母性に飲み込まれこの女は使い物にならなくなった」
気持ちの悪い声。人ならぬ声はあの夢の中で聞いた声と同じで鳥肌立つ。でも、それでも睨みを効かし、その姿から目を離さない。カイリ君の身体を乗っ取った化け物はさらに話を続ける。
「母性のある女では僕の増幅した欲求は満たせない。自分よりも大事な命。それこそ最高の生贄なのに。だから眠らせた。次なる身体をみつけるまで。
唇が離れない。身体も金縛りにあったように動かない。でもそれでも心の中で叫ぶ。
——そんなこと絶対にさせないっ!
カイリ君の身体はどんどん近くにやってくる。
「僕は神になる。この男を使い僕は神になる。種をそこらかしこに植えつけて僕の信者を増やす。人間は僕にもっと生贄を捧げる」
白濁した瞳。カイリ君の顔は唇を窄めてから口角をあげ「産め」と唇を動かした。
——刹那。
溺れた人が息を吹き返すような呼吸音が地下室に響く。祭壇上の女性が目覚めた。そう理解した瞬間、呻き声が地鳴りのように響き、身を
「ううぉおぉぉ……ああぁぁぁ……」
地鳴りのような呻き声が木霊する地下室。人形はカイリ君の腕を離れその頭上に浮かび上がる。完全にカイリ君は操られている。あの人形に。いや、中国最強の呪いの産物、貓鬼に。
眼球で隣のラブちゃんを見遣る。ラブちゃんは目を閉じてもごもごと口を動かしながら、何かに集中している。
「僕は公衆電話の太郎くん。名前を持った僕の増殖した意思は神になるほど強くなった」
カイリ君の身体が棚橋さんの前に立つ。棚橋さんはその場で崩れ落ちた。その身体を踏みつけ太郎くんは意味不明なことを話し出す。
「死ね。この役立たず。お前は一生モブキャラだ。汚物が。消すぞ」
棚橋さんの切れ長の目がカイリ君の身体を睨みつける。
「この男はいらない——」
カイリ君の身体が掬い上げるように手を動かすと、棚橋さんの身体が宙に浮いた。
「ぐっぉ、んごぉ、んご……」
棚橋さんが身を捩って苦しんでいる。棚橋さんの身体が、半透明の黒くて太い縄で縛り上げられている。
——やめて……。
「怖がれ。恐ろ。絶望しろ。お前も」
——やめて……。
苦しそうな棚橋さんの声が聞こえる。でも、自由の効かない身体では何もできない。
地下室に響く呻き声がピタリと止み、代わりに「ぶばっ」と吐き出すような音が響いた。棚橋さんが口から血を吐いた。首が項垂れ血がぼたぼたと床に落ちている。死んでしまう。このままでは棚橋さんが。あの黒い縄に締め上げられて——
——やめてぇ……っ!
声にならぬ声を喉の奥で絞り出した。その瞬間。棚橋さんは拘束が解け床に崩れ落ちた。苦しそうに咳き込む音が聞こえ、ぎゅっと目蓋を閉じる。
——良かった、まだ生きてる……
「お前——」低い声がして目を開けると、カイリ君の身体がラブちゃんの方に向いていた。
「邪魔——」
ラブちゃんはカイリ君の身体を睨みつけ、なおも口の中で声にならぬ声を発している。カイリ君の片腕が上がり、ラブちゃんの身体が宙に浮いた。半透明の黒い縄がラブちゃんの身体に巻きついている。ラブちゃんの着ている黒服が雑巾のようにみるみる絞りあげられていく。呻き声。どんどん歪んでいく洋服。——と、ラブちゃんからはらはらと零れ落ちるものが見えた。
——お札だ。
あれは、あの、地下室の入り口で剥がしたお札。
——これを一応持っていく。歴代のリンメイシァオがこの呪符を作ったのだとすれば、幾分かの効果はあるはず。——と、そう信じたい。
あの時ラブちゃんはそう言ってお札を剥がした。宙に浮かび苦しむラブちゃんを見ながら、何かできる事はないかと必死に考える。何か、何かできること。あのお札を拾い上げることさえできれば、もしかして何か——
——動け、動いてくれ、わたしの身体……っ!
ラブちゃんの唇から血が流れ始めた。このままではラブちゃんが死んでしまう。なんとかしなくては。そう思った。その時。カイリ君の首が変な角度で曲がり、押し出すような声で「まやぐゅぎゃあっ」と、意味不明な言葉を発した。白目を剥いた瞳がカッと大きく見開かれ、顔の筋肉が不自然に動く。
——カイリ君だ……。カイリ君の意識がきっと残ってるんだっ!
「まゃ……」
——間違いない。カイリ君だ。カイリ君の意識が抵抗してるんだ。
身体を乗っ取られたカイリ君の意識はまだどこかにいる。夢の中のわたしがそうだったように。まだ完全に消えてはいない。そう信じたい。絶対にそうだ。信じろ。カイリ君の存在を。きっとカイリ君は諦めない。
——カイリ君、助けてっ! はやくこっちに戻ってきてっ……!
心の中で何度も叫ぶ。熱い塊が腹の奥底から湧き上がってくる。ラブちゃんは身を捩りながらも口の中で何かを唱えている。わたしも祈る。唇が離れなくとも。声にならぬ声を絞り出す。頬を伝う涙を感じながら、わたしも叫ぶ。カイリ君、戻ってきてと——
「おぉおおお……おおおぉぉ……」
お腹の底に力を込めて。腹膜を振動させ力の限り音を出す。
——届け、カイリ君の意識にっ! 今すぐ届けぇ! カイリ君にっ! 戻ってこいっ! こっちにっ……!
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