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 あはははは。

 うふふふふ。


 頭の中でおかしな声が聞こえる。

 男なのか女なのか分からない声が僕を嘲笑っている。


 無駄な抵抗はやめろ。

 お前には何もできない。

 僕にはその笑い声がそう言っているように聞こえる。


 やめろ。

 僕は、僕は——。


 ダメだ。

 そんな声に惑わされるな。


 今できることを! 

 彼女の元へ向かうんだ!


 青白く光る文字。

 膨大な文字の波をかき分けて。

 もっと、彼女の元へ——


 彼女の元へ——


 文字の海に漂う女性に手を伸ばす。

 届かない。

 どれだけ手を伸ばしても彼女はどんどん離れていく。


 でも。

 諦めるな。

 それしか今できることはない。


 この無の世界にあって。

 僕ができるのはそれしかない。


 もっと——

 もっと——


 もうすぐだ。

 後少し。

 もう少しだ。


 伸ばせ腕を。

 指先を。


 せめて着ている白い洋服に指が触れれば引き寄せられるはず。

 そう思って手を伸ばすのに。


「ああああ、あ……ああぁ……」


 追いかければ追いかける程離れていく。

 でも。

 それでもと手を伸ばす。

 何度だって手を伸ばす。

 腕がちぎれても。

 肩がもげてしまっても。

 そう思って手を伸ばすのに。


 それなのに。


「なんでなんだよ……、なんで届かないんだ……」


 ——やっぱりダメなのか。


 どれだけ泳いでも。

 どれだけ手を伸ばしても。


 届かない。

 僕には。

 無理なのか。


 それに。

 これは。

 無の世界で頭がおかしくなった僕の、幻覚かもしれない。

 そう思った瞬間ふっと身体の力が抜けた。

 全て夢幻ゆめまぼろしだとしたら。


 あはははは。

 うふふふふ。


 また頭の中で僕を嘲笑う声がする。

 お前には無理だと笑う声が。


 ——もう腕の力もない……


 でも。

 それでも。


「うるさいうるさいうるさい、笑い声なんて聞こえない。そんなものは幻聴だっ……!」


 ——諦めたくない。

 

 上体を持ち上げもう一度腕を動かす。

 僕の身体に青白い文字が纏わり付いてくる。

 文字は赤く変色し、チクチクと僕の身体を刺し始め、全身に痛みが走る。


 やめろ。

 僕の邪魔をするな。

 振り払おうと捥がく。

 身体を捩る。

 剥がしても剥がしても身体に纏わり付く赤い文字。

 皮膚を切り裂く痛み。

 手で掴み文字を引き剥がす。

 何度も何度も繰り返す。

 波に漂う彼女がまた遠く離れていく。

 諦めたくない。

 失いたくない。

 それがもしも幻覚だとしても。

 それでも、諦めたくないっ!


「なんで僕に纏わり付くんだよっ! 邪魔するなっ!」


 手で引き剥がした文字が僕の網膜に、脳内に、体内に流れ込んでくる。


〈死ね〉〈殺すぞ〉〈消えろ〉〈生きてる価値なし〉〈汚物が〉〈カス〉〈蓄えすぎだわデブ〉〈敵ばっかだよお前〉〈望みなし〉〈虚しいわお前〉〈ムカつく〉〈歴史に残らないモブキャラが〉〈貧乏人が〉


 誰かが書いた誹謗中傷。


〈羨ましい〉〈なんでわたしばっかり〉〈もう嫌だ〉〈失敗すればいいのに〉〈子供がいないくせに〉〈なんであんたばっかり〉〈一生恨んでやる〉〈あんたなんて産まなきゃよかった〉〈わたしの人生を返せ〉


 恨み辛み、妬み僻みの言葉達。

 そして、絶望。


〈死にたい〉〈生きてても意味がない〉〈消えたい〉〈産まれてこなければ良かった〉


 ああ。

 そうなのか。

 そうだったんだ。


 僕は理解した。


 だから痛いんだ。

 チクチクと。

 ザクザクと。

 この心と身体を切り刻むような痛みは言葉の痛み。

 身体に纏わり付き離れないこの言葉の数々。

 これは誰かが書いた心を壊す刃。

 心臓を貫くほど深くまで差し込まれた言葉の刃。

 肉を切り裂き骨を砕く言葉の刃。

 僕の身体を切り裂き心を蝕む言葉達。


 纏わり付く赤い文字に蝕まれ気力を失っていく心。


「もう……」


 痛みに耐えきれない。この冷たい文字の海に沈み、ズタズタに切り裂かれ、流れるがままに流されて無の世界を漂い続ける。それも当然の報いかもしれないと思った。


 だって——


 僕もそう思ったことがある。

 僕もそう書いたことがある。

 これは当然の報い。


 ねえ、姉さん、そうなんだろ?


 痛みと悲しみ。

 絶望。

 魂を削り取る言葉の数々に流されてこのまま、ずっと——。


「僕なんて……、死んでもしょうがない存在、か……」


 目を閉じた。

 痛みを受け入れた。

 無数の心なき言葉に切り刻まれ僕の意識が消えていく。

 今度こそ、本当の死を覚悟した。

 このまま消えてしまっていいと思った。

 どうせ、僕なんて——


 ——でも。


 目蓋に暖かい光を感じて目を瞬かせた。


「ぁああぁああ……」


 光だ。

 頭上から光が差している。


 微かな光が頭上から差し込んでいる。

 僕は天を仰いだ。

 暗闇の只中。

 見える。

 小さな光の穴が——。

 そこから光が差し込んでいる。


 声が聞こえる。

 

 ——どうか、カイリ君を返してください。そして、ゆららさんもお母さんのもとへ返してください。私達を助けて……。どうか、どうか。お願いします。お願います……


 真矢ちゃんの声。

 聞こえる。

 今度ははっきりと聞こえる!


「ここだ。ここにいる……。僕はまだ、ここに——」


 弾かれたように身体を動かす。

 残された力を振り絞り身体に纏わり付く文字を引き千切る。


「真矢ちゃんっ!」


 文字の海に浮かびながら辺りを見渡す。

 女性の姿はまだ見える位置にある。

 急げ。

 光が差し込むうちに!

 あの光を見逃したらその先はない!

 光は彼女を指している!

 彼女の顔を照らしている!

 虚な瞳は開いている。

 彼女はまだ生きている。

 そう信じろ!

 そしてここから抜け出すんだ!


 波に揺れる長い髪を掴め!

 漂う白い洋服を掴め。

 たとえ身体中が痛くとも。

 動く限り動き続けろ!


 手を伸ばせ!

 もっと先へ。

 諦めるな!

 光の元へ!


 追いかけてくる誹謗中傷の言葉達。

 振り払い先へと手を伸ばす。

 心なき言葉。

 誰が書いたかも分からないような言葉。

 名前を名乗らぬ卑怯者の書いた言葉に!

 そんな言葉達に負けるな!


「負けてたまるかよーっ!」


 自分を信じろ!

 自分の力を!

 生きたいと思う自分を!

 可能性は自分の中にあるんだ!

 絶対負けないっ!

 諦めてなるものかっ!

 手を伸ばせっ!


 もう少し。

 もう少しで——


 手を——

 手を——


 文字の波に飲まれていく彼女まで!

 届け……!





 


 


 

 

 

 

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