17_3
*
あはははは。
うふふふふ。
頭の中でおかしな声が聞こえる。
男なのか女なのか分からない声が僕を嘲笑っている。
無駄な抵抗はやめろ。
お前には何もできない。
僕にはその笑い声がそう言っているように聞こえる。
やめろ。
僕は、僕は——。
ダメだ。
そんな声に惑わされるな。
今できることを!
彼女の元へ向かうんだ!
青白く光る文字。
膨大な文字の波をかき分けて。
もっと、彼女の元へ——
彼女の元へ——
文字の海に漂う女性に手を伸ばす。
届かない。
どれだけ手を伸ばしても彼女はどんどん離れていく。
でも。
諦めるな。
それしか今できることはない。
この無の世界にあって。
僕ができるのはそれしかない。
もっと——
もっと——
もうすぐだ。
後少し。
もう少しだ。
伸ばせ腕を。
指先を。
せめて着ている白い洋服に指が触れれば引き寄せられるはず。
そう思って手を伸ばすのに。
「ああああ、あ……ああぁ……」
追いかければ追いかける程離れていく。
でも。
それでもと手を伸ばす。
何度だって手を伸ばす。
腕がちぎれても。
肩がもげてしまっても。
そう思って手を伸ばすのに。
それなのに。
「なんでなんだよ……、なんで届かないんだ……」
——やっぱりダメなのか。
どれだけ泳いでも。
どれだけ手を伸ばしても。
届かない。
僕には。
無理なのか。
それに。
これは。
無の世界で頭がおかしくなった僕の、幻覚かもしれない。
そう思った瞬間ふっと身体の力が抜けた。
全て
あはははは。
うふふふふ。
また頭の中で僕を嘲笑う声がする。
お前には無理だと笑う声が。
——もう腕の力もない……
でも。
それでも。
「うるさいうるさいうるさい、笑い声なんて聞こえない。そんなものは幻聴だっ……!」
——諦めたくない。
上体を持ち上げもう一度腕を動かす。
僕の身体に青白い文字が纏わり付いてくる。
文字は赤く変色し、チクチクと僕の身体を刺し始め、全身に痛みが走る。
やめろ。
僕の邪魔をするな。
振り払おうと捥がく。
身体を捩る。
剥がしても剥がしても身体に纏わり付く赤い文字。
皮膚を切り裂く痛み。
手で掴み文字を引き剥がす。
何度も何度も繰り返す。
波に漂う彼女がまた遠く離れていく。
諦めたくない。
失いたくない。
それがもしも幻覚だとしても。
それでも、諦めたくないっ!
「なんで僕に纏わり付くんだよっ! 邪魔するなっ!」
手で引き剥がした文字が僕の網膜に、脳内に、体内に流れ込んでくる。
〈死ね〉〈殺すぞ〉〈消えろ〉〈生きてる価値なし〉〈汚物が〉〈カス〉〈蓄えすぎだわデブ〉〈敵ばっかだよお前〉〈望みなし〉〈虚しいわお前〉〈ムカつく〉〈歴史に残らないモブキャラが〉〈貧乏人が〉
誰かが書いた誹謗中傷。
〈羨ましい〉〈なんでわたしばっかり〉〈もう嫌だ〉〈失敗すればいいのに〉〈子供がいないくせに〉〈なんであんたばっかり〉〈一生恨んでやる〉〈あんたなんて産まなきゃよかった〉〈わたしの人生を返せ〉
恨み辛み、妬み僻みの言葉達。
そして、絶望。
〈死にたい〉〈生きてても意味がない〉〈消えたい〉〈産まれてこなければ良かった〉
ああ。
そうなのか。
そうだったんだ。
僕は理解した。
だから痛いんだ。
チクチクと。
ザクザクと。
この心と身体を切り刻むような痛みは言葉の痛み。
身体に纏わり付き離れないこの言葉の数々。
これは誰かが書いた心を壊す刃。
心臓を貫くほど深くまで差し込まれた言葉の刃。
肉を切り裂き骨を砕く言葉の刃。
僕の身体を切り裂き心を蝕む言葉達。
纏わり付く赤い文字に蝕まれ気力を失っていく心。
「もう……」
痛みに耐えきれない。この冷たい文字の海に沈み、ズタズタに切り裂かれ、流れるがままに流されて無の世界を漂い続ける。それも当然の報いかもしれないと思った。
だって——
僕もそう思ったことがある。
僕もそう書いたことがある。
これは当然の報い。
ねえ、姉さん、そうなんだろ?
痛みと悲しみ。
絶望。
魂を削り取る言葉の数々に流されてこのまま、ずっと——。
「僕なんて……、死んでもしょうがない存在、か……」
目を閉じた。
痛みを受け入れた。
無数の心なき言葉に切り刻まれ僕の意識が消えていく。
今度こそ、本当の死を覚悟した。
このまま消えてしまっていいと思った。
どうせ、僕なんて——
——でも。
目蓋に暖かい光を感じて目を瞬かせた。
「ぁああぁああ……」
光だ。
頭上から光が差している。
微かな光が頭上から差し込んでいる。
僕は天を仰いだ。
暗闇の只中。
見える。
小さな光の穴が——。
そこから光が差し込んでいる。
声が聞こえる。
——どうか、カイリ君を返してください。そして、ゆららさんもお母さんのもとへ返してください。私達を助けて……。どうか、どうか。お願いします。お願います……
真矢ちゃんの声。
聞こえる。
今度ははっきりと聞こえる!
「ここだ。ここにいる……。僕はまだ、ここに——」
弾かれたように身体を動かす。
残された力を振り絞り身体に纏わり付く文字を引き千切る。
「真矢ちゃんっ!」
文字の海に浮かびながら辺りを見渡す。
女性の姿はまだ見える位置にある。
急げ。
光が差し込むうちに!
あの光を見逃したらその先はない!
光は彼女を指している!
彼女の顔を照らしている!
虚な瞳は開いている。
彼女はまだ生きている。
そう信じろ!
そしてここから抜け出すんだ!
波に揺れる長い髪を掴め!
漂う白い洋服を掴め。
たとえ身体中が痛くとも。
動く限り動き続けろ!
手を伸ばせ!
もっと先へ。
諦めるな!
光の元へ!
追いかけてくる誹謗中傷の言葉達。
振り払い先へと手を伸ばす。
心なき言葉。
誰が書いたかも分からないような言葉。
名前を名乗らぬ卑怯者の書いた言葉に!
そんな言葉達に負けるな!
「負けてたまるかよーっ!」
自分を信じろ!
自分の力を!
生きたいと思う自分を!
可能性は自分の中にあるんだ!
絶対負けないっ!
諦めてなるものかっ!
手を伸ばせっ!
もう少し。
もう少しで——
手を——
手を——
文字の波に飲まれていく彼女まで!
届け……!
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