16_3

 ——こうなるような気はしてた。


 暗闇の中。鼓動が響く。動いている。まだ、心臓は動いている。それに——。


 ごろりと体勢を変える。ひんやりとした床に頬をつけ、ハァと小さく息を吐いた。呼気が生温かい。どうやらまだ自分という存在がこの世に残っている。


 でも。


 上も下も横も何もかもが黒い。いや、黒を通り越してもはや色など存在していない。その中にいて、ただひとり。


 不思議と怖いと思う気持ちはない。

 ようやく終わった。

 そう思う気持ちの方が強い。


 でも——。


 この何もない世界にずっと留まり続けてしまうのか。


 死とは——


 この無の世界なのか。

 天国でも地獄でもなく。

 三途の川もありはしない。


 何も見えず、何も聞こえず、何も臭わない。

 何もない、この世界が——


 ——死。


 心臓は動いている。呼吸もしている。指は動くし、身体の感覚はある。


 それなのに、世界は全くの無であって。

 その中に、永遠に存在し続ける。

 それが、死——


「本当にいいの?」と、懐かしい声が脳裏に響く。


 ——なにを今更、そんなことを。


 もう、終わらせたかったんだ。

 何もかも、全てを。


 それを悟られまいとして——。


 ——悟られまいとして?


 誰に——。


 そうだ。

 悟られたくなかったんだ。

 僕の本心を。

 姉さんに。

 身勝手極まりない姉さんに。


 僕は悟られたくなかったんだ。

 僕の親代わりになった姉さんに。

 

 だから僕は——。


 僕も大人なふりをして。

 物分かりの良いふりをして。

 言われるがままにパリへ行き。

 言われるがままにレッスンを受けてきた。


「ハハハ——」


 乾いた声が闇に吸い込まれてゆく。


 ——姉さん、知ってた?


 パリにはね、僕くらいの人間はざらにいるんだよ。身長も、容姿も、何もかも。僕は井の中の蛙だったんだ。成功するなんて無理な話だよ。


 それでも。

 それでも。


 姉さんの言われるがままにしていれば。姉さんがそれで満足していれば。いつか姉さんの役に立てると信じてた。


 そう思っていたけれど——。


 今年の初め。一時帰国した時に僕は姉さんのパソコンを見た。姉さんは、WEB小説サイトでエッセイを書いていた。全然普通の人じゃないくせに、普通の人のふりをして。そして楽しく普通の人とコメントのやり取りをしていたね。


 僕は。

 僕は。


 僕は普通じゃない世界に進んだのに。


 だから僕は。

 僕は——。

 

 冗談のつもりだったんだ。打ち明けられない弱音や不安。溢れ出る嫉妬心や虚栄心。全部ぶちまけてしまえばどれだけ楽に生きれただろう。でも、僕は言えなかった。大人になったフリをして全部抱え込んでいた。姉さんにそんな僕だと知られたくなかった。パリでモデルとして活躍し、キサキマツシタコレクションに出る。それを皮切りに一流のパリコレモデルにのしあがる。姉さんの夢はいつしか僕を支配し、僕はそれに従った。


 いま思えば馬鹿みたいだ。

 こんなことになるなんて。


 あの日。普通で楽しそうな姉さんの一部を見て、抑え込んでいた感情がプツリと音を立てた。そして、目に入った小説を読んだ。『公衆電話の太郎くん』。


 ——そんな都市伝説があるなら最高じゃん。


 厳しいレッスンからの解放。妬みや嫉妬に感情が飲み込まれることもない。手っ取り早く成功し、気楽に人生生きられる。そんな風に思った。


 ほんの遊びのつもりだった。

 だから探した。

 財布の中を。

 貯金箱の中を。

 街中を。

 探して。


 そして——。


 白い息が舞う冬の夜に。

 十円玉を握りしめて。

 僕は。

 緑の公衆電話へ向かった。


 誰かが書いた、それも文章力の乏しい素人が書いた小説の都市伝説を試してみるなんて馬鹿げてる。生まれ年の十円玉が思った以上に手に入らず、その反動もあったかもしれない。やっと見つけた生まれ年の十円玉。試さない選択肢はなかった。

 

 ——だから、冗談のつもりだったのに。


 深夜、帰宅した僕のスマホは鈍い振動音を出した。スマホ画面に浮かび上がる『公衆電話』の四文字。あの日、僕は通話ボタンを押してしまった。そして、そのまま電話を切った。


 僕が。

 僕が公衆電話に行ったから。


 姉さんは——

 ——死んだの?


 だから僕は必死になって都市伝説『公衆電話の太郎くん』を調べた。調べて、調べて、そして証明したかったんだ。誰かが書いた都市伝説で人が死ぬなんてことはありえないと。僕が試したせいで姉さんが死んだわけないと。


 ——馬鹿だな、どんだけ子どもだよ。


「ハハハハハ……」


 また乾いた声が出た。胸が苦しくて目頭が熱くなった。涙が床に溢れる。無の世界、自分の流した涙は苦くてしょっぱい味がした。


 これが、もしこの場所が『死』であるならば、僕は当然の報いを受けた。このままこの『無』の世界に永遠に閉じ込められる。そのうち気が狂い始めるかもしれない。なにもない世界でただ一人なのだから。それ相応の罰。そう思って目を閉じた。


 ——ゆ……


 声がした。

 聞いた事のある声が。


 まさか。

 そんなはずはない。

 ここは死の中。

 無の世界なのに——


 ——マ……コメ…………りと……


 また聴こえた。

 女性の声が——。

 何も見えない。

 でも——。


 ——手を…………て……早く!


 弾かれる意識。

 声がする方に顔を向ける。

 あの声は——。

 

「真矢ちゃん……」


 真矢ちゃんの声がした。

 間違いない。

 あれは真矢ちゃんの声——。


「まさか、真矢ちゃんもこの世界に——」


 立ち上がり声のする方へ。真矢ちゃんは死んではいけない。真矢ちゃんは僕に巻き込まれただけなんだ。真矢ちゃんは、真矢ちゃんは——


「助けなきゃダメだ。真矢ちゃんを——」


 何も見えないけれど。

 声はもう聴こえないけれど。

 だめだ。真矢ちゃんは死んだら。

 タッ。床を蹴る。

 走れ!

 急げ!

 声が聞こえたその方へ!


「真矢ちゃん——」


 走れ!

 もっと速く!

 急げ!

 例え足が千切れそうになっても!

 真矢ちゃんの、真矢ちゃんの声がした方に——。


 急げ!


 闇の中を。

 足の動く限り。

 真矢ちゃんを巻き込んだのは僕なんだ。

 助けなくては。

 姉さんほど年の離れた真矢ちゃんを。

 僕は、僕は、僕は——。


 死んだらダメだ!


「真矢ちゃん——」


 破裂しそうな心臓で、涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔で。何も見えない無の世界を走って走って走って——。


 でも——。

 どこまで行っても闇の中で。


 何もない世界で躓き倒れ込んだ。

 足がもう動かない。

 痛い。

 身体中が痛い。

 

 走っても辿り着けない。

 どこまで行っても何もない。

 声も幻聴だったのだ。


 肺が破裂しそうなほど。

 顔もぐしゃぐしゃにして。

 必死になって走ったのに。

 馬鹿みたいだ。

 息が苦しい。

 意識が頭から抜けていく。


 ——ああ、これが多分本当の死。


 そう思った。でも、閉じかけた瞼の隙間に僕は視た。何も見えない闇の中。視える。蒼白に輝く大量の文字の海——。


「あ、ああ、あ……」


 押し寄せる光。文字の大群が津波のように僕を呑み込む。網膜に流れ混む大量の文字。平仮名、漢字、カタカナ、数字にアルファベット、記号——。その中を漂いながらみつけた。


「あ、れは——」


 文字の波に飲まれ消えていきそうな女性の姿。あの人も死んだのか。いや、まだ僕は意識がある。それに身体も痛い。だとしたらあの人もまだ——。


 文字の海に浮遊する身体。その全身に力を入れた。


 ——意識をたもて!

 

「しっかりしろ——」


 文字の波をかき分けて泳ぐ。

 その人の元へ——。


 速く、もっと速くと腕を動かす。指の間を青く光る文字が幾つも幾つも流れていく。文字の海をかき分けかき分けて。もっと、側へ。


 もっと、もっと——

 

 その先にあるものが死だとしても——

 

 もっと——

 

 


 

 

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