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 地下室へ向かう階段は床板をずらした先にあった。石造りの螺旋階段。湿り気を帯びた冷気を纏いながら慎重に足を進める。カビ臭いような、土臭いような、腐臭のような、独特の臭いが鼻を突く。


 子供の頃に嗅いだ『蟲』の臭いを咄嗟に思い出し、鼻先を指で押さえた。この臭いには記憶が紐付けされている。近所に住む同級生の男の子がわたしに嗅がせた、あの臭い。虫取りに興じた後、彼が庭に放置したひび割れたプラスチックケースの臭い。甲虫が雄、雌入り乱れた飼育ケースは、夏を過ぎ、飢えに苦しみ地上へ這い出た幼虫で埋め尽くされていた。茶色く変色しチリチリと萎んだ大量の死骸。これは、あの、透明なプラスチックケースの中の、臭い。


 呼吸をするたびに肺に溜まっていく妄想。臭いの成分は飢えた蟲となり、肺の中を這いずり廻る。脳が危険信号を出す。呼吸を止めろ。じゃないと身体中に蟲が入り込むぞ——と。ぎゅっと奥歯を噛み締め妄想を打ち消す。それに呼吸は止められない。


 ——猫に喰われて死んでたんですよ。

 ——蝿も集っていて。


 町田さんの言葉も思い出す。やめろ。思い出すな。それに——


 ——その死体があった部屋はどの部屋だったのか。


 不意に浮かんだ疑問。一階部分の部屋は半分程度しか見ていない。町田さんは家の中に入り死臭を嗅いだ。そして腐乱した遺体を発見した。その部屋は、どこなのか——。


 棚橋さんの「ここです」という声で思考を止め、最後の一段を降り部屋に入った。懐中電灯の光が当たる暗い地下室は、狭い四角形の部屋で、床に壺は無かった。


「ここにさっきの布が落ちていました」棚橋さんが床にライトを当てる。どす黒い血のような色の床。陶器のようなつるりとした表面は所々剥げている。


「気持ち悪い色——」小さく呟いて辺りを見渡す。地下室は六畳ほどの広さで電気はなく、壁に燭台が取り付けられていた。ちびた蝋燭にラブちゃんがライターで火をつける。ぼっと微かな音を出し蝋燭は炎をあげた。揺れる炎の灯りで部屋の全容が見える。床と同じ材質で壁も天井もできている。それはまるで壺の中にいるような部屋で——と、思った瞬間。階段の上から引き摺るような音がした。


 ズズズッ……ズズッ……

 

 ——刹那。


 ガタンと振動音がして階段上の入り口が塞がれたと気づく。棚橋さんが「しまった」と声に出し階段を駆け上がった。すぐにガタガタ振動音が地下室に響き、「ダメだ」と階段上から声がした。


「閉じ込められたわね」ラブちゃんが言うと同時に棚橋さんが地下室へ駆け下りる。「やられました。びくともしません」とスマホを取り出し、「電波が入らない」と棚橋さんは言った。


「くそっ! 自分が付いていながら不甲斐ない」

「呪布で撒き餌をして、地下室へ誘導。ここへ閉じ込めて、それで次は——」


 ラブちゃんが顎をついと動かす。息を止め、その先に視線を動かした。炎に照らされ浮かび上がる扉。呪術を全く知らないわたしでも、これは良くない物を閉じ込めた扉だと理解できる。幾重にも重ねて貼られた大量のお札。そのお札をラブちゃんは丁寧に剥がし始めた。


「これを一応持っていく。歴代のリンメイシァオがこの呪符を作ったのだとすれば、幾分かの効果はあるはず。——と、そう信じたい」

「それに急がないと、空気が薄いですね」


 棚橋さんが切れ長の目で壁の蝋燭を見遣る。確かに。蝋燭の炎はやけに小さく揺れ動いている。閉じられたままの地下空間。酸素の量が少ないのだ。「わたしも——」と扉に向かい、呪符を剥がした。


「蠱毒を撃退する方法、あの時もっとちゃんと聞いておけば良かった。まさか、蠱毒と遭遇するなんて思ってもみなかった。でも、今更しょうがない。できることしかできない。カイ君を救い出して、この屋敷から抜け出す。今はそれを一番に考えて行動する。それしかない」


 呪符を剥がしながらラブちゃんは口に出す。それはまるで自分に言い聞かしているようで——。


「それに、最悪、どうしようもなかったら、あたしの中に——」


「え?」と手を止めた。「あたしの中?」ラブちゃんの顔を見上げる。


「半陰陽のあたしの身体を器にして封じ込める。できるか分からないけど、そう誘導する。心配しなくても大丈夫よ——」

「でも——」

「昔から両性具有、半陰陽は魔力があるとされていたの。生まれつきの魔力。そんなのあたしにはないけどね。でも、あたしの生殖機能がない不完全な子宮には、魔物を取り込む力がある。そう教えてくれた呪術師がヘソの周りにタトゥーを入れてくれた」


 ——おへその周りにタトゥー。一緒にお風呂に入った時は泡で見えなかった。


「一時的でも体内に封印できれば、力のある呪術師を連れて、電波も電気もない人の住んでいない場所に行き、改めて貓鬼を封印出来るかも知れない」

「体内に封印してる間、ラブちゃんは大丈夫なの?」

「分かんない。やったことがないから」

「それじゃあ——」


 懐中電灯で部屋の中を調べていた棚橋さんが横に並ぶ。すぐに頭上に大きな手が伸びた。扉の上部に貼られた呪符を剥がしながら「守ってみせます」と棚橋さんの低い声が地下室に響く。その声には不安の色がどことなく滲んでいて、最悪の場合——と、また考え始め奥歯を噛み締める。


 ——最悪なんて、ありえない。みんなで脱出、それしかない。


 ラブちゃんが最後の一枚を剥がすと、鉄の扉はギィと錆びた音を出し、その口をみずから開けた。頬に触れる冷気。棚橋さんが暗闇を懐中電灯で照らす。十メートルほどの狭い地下道。その先にはまた扉があった。微かに香る浄化の煙。

 

 ——蟲が逃げていく。


 カイリ君はそう言っていた。駆除しても駆除しても寄ってきた蟲が逃げていくと。間違いない。あの扉の向こうにカイリ君はいる。



 

 


 



 



 

 

 

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